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『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』

少し時間が空いてしまいました。

「これからの時代の生き方-10訓-」の9番目は、『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』です。「クォンタム」が出てくると、あれもこれもと色々書きたい内容が湧いてくるので、次の10番目『クォンタム・エネルギーが喜ぶように生きる』と合わせて、何回かに渡るかも知れません。

まず初めに、「クォンタム」って何なのか、自分の定義めいたものを述べておく必要を感じます。英語のQuantumを日本語に訳せば「量子」です。この量子力学でいうところの「量子」と素粒子物理学でいうところの「素粒子」は、同じものと思うのですが、とらえ方の方向が違っているのだと思います。エネルギー・物理量について宇宙のもっとも基本的な最ミクロの構成単位を追及していった結果、現れたのが「量子」という物理量の基本単位です。一方、宇宙を構成している「物」をミクロにミクロに追及していった結果たどり着いたのが、「素粒子」という基本の粒です。これ以上ミクロなものはない究極の宇宙の構成単位が物理量としてみれば「量子」、粒としてみれば「素粒子」なのですが、ここでは両者をまとめて宇宙の基本構成単位として、日本語英語の「クォンタム」を使わせいただきます。

宇宙の究極の基本構成単位としてたどり着いた「量子」「素粒子」ですが、これをもってしても物理学的に宇宙に存在する4つの力「強い力」「弱い力」「電磁力」「重力」のすべてを説明することができないのですね。特に「重力」を他の力と同じ構成単位で説明することが物理学の課題でした。それを一応説明した形になっているのが「超ひも理論」です。

物理学素人である自分の勝手な解釈がかなり入ってしまうのですが、「量子」や「素粒子」よりももっとミクロな基本構成単位を「超ひも」とすることで、宇宙のすべてのありようが「超ひも」で説明できるというものです。「超ひも」とは、10のマイナス35乗メートルくらいの長さの一見ひもの様にとらえられるエネルギーの振動とかスピンで、それが宇宙のあらゆるものを作っている最小構成単位だということです。これ以上ミクロなものはもうないということです。宇宙の中にあるものは、何から何まで全部この「超ひも」で出来ているということです。そしてこの「超ひも」は、物理学的に11次元の存在なんですね。

そんな訳で、自分は「クォンタム」という言葉の中に「超ひも」も含めているというか、ほとんど「超ひも」の意味で使ったりしています。この点、どうぞご了解ください。

さて、5年前に書いた論文「クォンタムマネジメントのすすめ」の中で、「クォンタム」の性質を下記のようにまとめました。

・クォンタムは、これ以上分けることのできない不連続な物理量(活動)単位です。

・クォンタムは、粒子性と波動性の二面性を持ちます。

・クォンタムは、観察しようとする観察者の姿勢が、観察対象のクォンタムの存在状態に影響するため、純粋に客観的な存在状態が掴めません。

・クォンタムには不確定性原理と呼ばれる性質があり、クォンタムの存在する位置を特定しようとするとその運動状態が特定できず、逆に運動状態を特定しようとするとクォンタムの位置が正確に特定できなくなるというものです。これは、ニュートンの古典力学ではあり得ないことです。

・クォンタムはその波動性から、ひとつのクォンタムが複数の場所に共存することができます。

・複数の場所に存在するひとつの波動性のクォンタムを二つの入れ物に分けて入れることができますが、この二つの入れ物を、距離を離してから中身を確認すると、先に確認した方の入れ物の中に粒子としてのクォンタムが観察されることになります。これをクォンタムの、波束の収縮と呼びます。

・クォンタムは、一度関係性が付与されたクォンタム同士が、距離が離れても同時に作用し合います。これはベル(ジョン・ベル)の定理と呼ばれ、アラン・アスペによって実験的に検証されています。これに関連して、即時的遠隔作用、クォンタム・エンタングルメント(量子のもつれ)、量子相関、量子同調、クォンタム・トランスポーテーションなどの言葉で語られる性質が導き出されます。

さてどうでしょう。私たちは、こうたたけばこうはね返るというように、動き方が決まっている存在ではありません。つかもうと思ってもつかめない存在です。同時に複数の場所に存在したり、宇宙の果てと同時に回転したり、干渉して固まったり、そんな性質の「クォンタム」の集合体が私たちです。私たちはそのことを、肝の奥に叩き込む必要があるのです。

『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』、「クォンタム」の性質を踏まえた生き方、世の中の在り方を、この後色々な面から考えていきたいと思います。

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『何かをしているときは、そのしていることになりきる』

コロナの感染者数が結構急に減っていることに驚いているのですが、東京の緊急事態宣言が解除になったら、火曜日の麹町のヒーリングサロンを再開しようと思います。それと一緒になるか(?)、ZOOMを使った遠隔ヒーリングを始める準備を進めています。

さて、「これからの時代の生き方-10訓-」の8番目は、『何かをしているときは、そのしていることになりきる』です。

37,8年前の話になりますが、通っていた瞑想道場での教えに「超作」という言葉がありました。

何かをしている時に、そのしている行為になりきるというものです。掃除をしている時は、掃除をしている行為になりきる。漫画を読んでいる時は、漫画を読んでいるという行為になりきる。味噌汁を飲んでいる時は、味噌汁を飲んでいるという行為になりきる、というものです。集中して行うというのとは微妙にニュアンスが違って、瞑想のマインドフルネスに近いでしょうか。禅にも歩きながら行う経行(きんひん)と呼ばれる禅行があり、同じような意識状態を作るもののように思えます。いまここで行っている行為になりきっちゃう、というものです。

瞑想は、一般の人が意識を変容させレベルを上げていくために具体的に取り組むものとして、誰にでも薦められるものだと思います。ただ、変容の仕方、進み方は人それぞれなので、他の人と比べっこするのは禁物です。この「何かをしているときは、そのしていることになりきる」も、生活全般で意識を変容・成長させることを、知らず知らずに安定的に即すものとしてお薦めです。

最近は、平易にやりやすく多面的な効果のあるマインドフルネスのような瞑想が普及していますが、もっと広まって人類レベルでの意識変容が進まないものかと思います。昔は、瞑想ひとつするのも瞑想「行」と呼んだりして、「ちゃんとしたグル(指導者)についてやりなさい。」と言われたものです。魔境に落ちるとか、よからぬものに憑依されるとか、結構脅されたし、実際いろいろなケースを目にし、体験もしました。大きな悪い事例としては、オーム真理教なんかもありましたね。

今は、地球レベルで波導というか地場というか、環境が変わっていて、そうした危険性は著しく減っているように思います。でも、改めて瞑想というと、毎日座ってそれを続けるには、一種の覚悟のようなものが必要でしょう。なので、座った瞑想でなくても、「何かをしているときは、余計なことは考えずに、そのしていることになりきる。」みたいなことを、実生活のなかで心掛けられないでしょうか。そんなふうに心掛けても、気がつくと直ぐに余計なことを考え始めているのが私たちの常ですが、思い出したらまた「何かをしているときは、そのしていることになりきる」を繰り返していると、「あれ、最近昔より随分気持ちにゆとりができてるな。」なんてふと気づいたりするものです。

小さな一人ひとりのちょっとした気の持ち方が、これからの世界を大きく変えていくのだと思います。

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『自然や周囲の環境を観察し、メッセージを受け取る』

コロナの影響がまだまだ続きますが、ワクチン効果も限定的と思えるし、もう2,3年は波状感染拡大がありそうですね。withコロナ、afterコロナの生き方を考え、定着させることが問われそうですね。

そこで「これからの時代の生き方-10訓-」の7番目ですが、『自然や周囲の環境を観察し、メッセージを受け取る』です。これは風水で言う外応に近いかも知れません。何か質問を心の中で投げかけると、その解答に結び付く現象が、身近な外界に現れるというものです。高次の自分とか深い意識になると、自分というフィールドが広がるのですね。だから肉体の自分から見た外界に自分フィールドがあり、そこにきめ細かな意識を向けてそのメッセージを受け取ることで、深い自分に繋がった生き方の体現訓練になります。頭で考えるのではなく、遊び感覚で、ふっと直感的にとらえるのがいいと思います。自分の場合は、何かしら鳥が現れたり、鳴き声が聞こえたり、特徴的な形の雲が出ていたり・・がよくあります。

ちょっと難しい話をすれば、量子・素粒子には即時的遠隔作用とかクォンタムエンタングルメントとかクォンタムエントレインメントとか呼ばれる存在としての性質があり、色々なものが量子・素粒子レベルでは繋がって同時に動いているということです。それがメッセージにもなるし、自分の広がりにもなります。

これまで私たちは、分子・原子レベルの反応までを科学的として学校教育でも学習し、実生活でもそこまでを科学的として生きてきました。これからは、もうちょっとミクロな量子・素粒子の存在法則を科学的と認めて、実生活でのもの見方を変えていく必要があります。科学的という言葉には逆行しますが、それは私たちがもっとずっと昔に当たり前にやっていたことを、色々見直す生き方に繋がります。分子・原子レベルの科学を信仰するあまり否定してしまった色々な習慣や風習を、もう一度見直してみたいものです。

自然や周囲の環境を注意深く観察してみましょう。そこにはきらめくメッセージが満ち溢れています。

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『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』(その2)

寒い日が続きますが、これから塾、今回は『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』の2回目、「他の人にとらわれない」です。

さて、他の人、そこには色々な人達が全て含まれますが、私たちはこの他の人達をどのように捉えているでしょうか。私たちには他の人が見えます。他の人の話が聞けます。他の人を感じられますが・・

ここにAさんとBさんがいたとします。あなたがとらえたAさんがいます。同じAさんをBさんがとらえたとします。あなたがとらえたAさんと、BさんがとらえたAさんは同じAさんでしょうか。同じAさんをとらえていても、あなたがとらえたAさんとBさんがとらえたAさんは、全く同じということはないですね。何故でしょう。

見るという行為を例に取れば、Aさんを見るということは、Aさんが反射している光(可視光線)をあなたが目でとらえて、その光の情報を頭の中でAさんという像にして描いていることになります。

私たちは、目で見ている世界がそのまま外にあるものだと思っていますが、あくまでも頭の中の立体3Dスクリーンに像を描いて、それをとらえていることになります。あなたが近視で、Bさんが遠視だったら、同じAさんの像にはならないですよね。視覚映像だけでも同じでない上に、普段私たちは自分の持っている知識とか、感情とか、思惑とかを含めて、自分が頭の中に描いた視覚映像をとらえることになります。自分というフィルターを通して見ているんですね。

それは像です。本物の姿ではありません。そもそも有限の認識の能力しかない私たちに、本当のそのものの実像なんて掴めるはずがないんです。自分というフィルターを通してとらえている他の人にとらわれてしまうということは、自分の中にとらわれる因子があるということです。

Aさんは確かにAさんとして存在している訳ですが、あなたにとってのAさんは、Aさんを通してあなたの中のとらわれ因子に気づくために存在してくれているAさんになります。だからそこに気づくことが大切です。逆にAさんから見たあなたは、Aさんのフィルターを通した像になります。あなたという存在が、AさんがAさんの中のとらわれ因子に気づく役割を果たしているのです。

このような相補的な関係が、どんなものの間にも働いているのがこの世の仕組みです。だからとらわれていることに気づいて、気づいて、気づいていく。そのことに気づけると人生は大きく変わっていくと思います。他の人にとらわれるのではなく、とらわれている自分に気づきましょう。気づいたらそれを直すとかではなく、そんな自分に気づけばそれでOKです。

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緊急事態宣言に伴う休業のお知らせ

いつもお世話になっております。

この度のコロナ感染拡大による緊急事態宣言発出に伴い、毎週火曜日のヒーリングサロン『QEハーモニー』を休業させていただきます。

宣言解除後は再開いたしますが、改めてご案内申し上げます。

ご不便をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いいたします。

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『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』

明けましておめでとうございます。

年明け早々首都圏は緊急事態宣言になってしまいましたが、これも次の時代に進むために必要なステップ(?)と、冷静に受けとめて坦々と進んでいきましょう。

「これからの時代の生き方-10訓-」ですが、今回は6番目の『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』です。

時間軸の話を以前しましたが、宇宙には時間という流れるものが存在している訳ではありません。存在しているのは、毎瞬毎瞬のエネルギーのありようだけです。エネルギーのありようのある部分を捉えて、時間として定義しているのです。

存在しているのは今この瞬間だけです。この瞬間が、次の瞬間、次の瞬間と刹那滅を繰り返して繋がっていくのが宇宙です。だから過去とは、今この瞬間に内在している以前の記憶や記録情報ということになります。今この瞬間に残っている記憶や記録は、次の瞬間に向かって変わることがありますし、変えることができます。時間軸を遡って固定された過去というものはないのだから、そんなものにとらわれる必要はないのですが、これにとらわれた時に湧く感情の代表が、「後悔」でしょうか。

実際はどうでしょう。今この瞬間にあるものは、ほとんど同じように次の瞬間に受け継がれて行きます。この原理の説明は、クォンタムの説明のところでゆっくりしたいと思いますが、存在は、次の瞬間も同じように存在しているととらえられるから、そうやって存在してきた過去が存在しているととらえられてしまう訳です。禅問答みたいですね。

今この瞬間に内在する以前にあった記憶情報に毎瞬毎瞬とらわれてしまうのは、毎瞬毎瞬これに反応している感情のスピードが、顕在意識でものを考えるスピードより圧倒的に早いからだと思います。だから今この瞬間を見つめる意識になって、ゆったりした呼吸を繰り返していると、とらわれ方は随分変わってくると思います。マインドフルネスですね。

将来のことにとらわれるのも、原理は過去と同じですね。存在しているのは今この瞬間だけですから、時間軸の先の未来はありません。あるのは今この瞬間に内在する未来予測情報です。その予測がこれから先の瞬間において現実になる可能性は結構高かったりするのですが、予言や占いが当たるのは、それなりの存在法則があるからです。(これについても、いつか書きたいと思います。) 将来のことにとらわれる今この瞬間の感情の代表として「不安」がありますが、瞬間の中に「不安」がある訳ではありません。だから今この瞬間を見つめる意識になって、ゆったりした呼吸を繰り返していると、将来へのとらわれ方は随分変わってくると思います。

過去と将来で随分長くなってしまったので、「他の人にとらわれない」は、次回にしようと思います。

みなさま、感染に気をつけて元気にお過ごしください。

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『自分を内省して出てきたものを、素直に表現する』

2020年がいよいよ終わります。なんといってもコロナ感染パンデミックにより、大変な一年になりました。でも自分自信について言えば、ここ数年精神面というか、思想的といか、スピリチュアル的というか、そういう活動が停滞していたところに、再度灯がともった感じの年になりました。コロナで外出を控えていた時期に、思うところを情報発信するようにとのメッセージが何回も降りて、「コロナ後の世界」をFacebookに連載したりしたものです。

その延長線上で、これからの「風の時代」に向かってホームページ上でこの『これから塾』を始めた次第です。2020年はそんな年になりました。

さて「これからの時代の生き方-10訓-」、今回は5番目の『自分を内省して出てきたものを、素直に表現する』です。これは、旅するスピリチュアリストあまね理樺さんが動画で語られていた言葉を参考にしました。「あるがままの生き方」として引き出された言葉だったと思います。

腑に落ちて取り上げさせていただいたのですが、前半の「自分を内省して出てきたもの」については、「気づく」「気が付く」でも述べてきたように、自分の内側にこそ大切なものがあり、それを見つめることが大切だということです。

それを「素直に表現する」とはどういうことでしょうしょうか。やはり私たちは周囲のこと、周りの人達のことなどを気にして、自分の行動を制限してしまったり、変えてしまったりします。自分の場合はこればっかりやっているタイプの人間ですが、これからの時代は自分軸で生きる時代、内側から浮かび上がってきたものを素直に行動に移していくことが大切だと思います。

自分の中には、色々な自分、色々な顔があると思います。それはレイヤーをなしていて、焦点の合わせ方によって自分が違って見えたりするものです。でも、どれも確かに自分なんですね。だからその時その時に焦点のあったことに、あんまり考え過ぎないで、素直に寄り添っていくことが必要なんだと思います。周囲を気にするよりは、気が付けばその方が周囲との歯車が上手く回っていることが多いと思います。

自分の内側を内省して出てきたものを素直に表現してみましょう。そうすると表現した先の外側と、内側の境目が薄まってくるでしょう。

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年末休業日のお知らせ

いつも大変お世話になっております。

年末に向かい、12月22日(火)と29日(火)は、休業とさせていただきます。年明けは、1月5日(火)より開業いたします。

コロナ感染拡大が続いていますが、皆様どうぞよいお年をお迎えください。

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『気が付いたときに、その気が付いたことをする』

さて、もうじきグレートコンジャンクションですが、米大統領選もコロナ感染拡大もまだ大きな事象がありそうですね。一喜一憂しないで、時代の変化の大きな流れの中の出来事として冷静に受け止め、坦々とやるべきことをやって行きたいものです。

「これから塾」今回は10訓4番目の『気が付いたときに、その気が付いたことをする』についてです。前回の「気づく」と「気が付く」を比べると、今回の「気が付く」の方が日常的な反応だと思います。そして、「気が付いたときに、その気が付いたことをする」とは、気が付いたことを即やってしまう、ということに他なりません。

もう少し具体的に言うと、例えば部屋の掃除をしている時に、ふと「卵と牛乳を買っとかなきゃ」と思ったら、掃除を中断して卵と牛乳を買いにいった方がいいということです。デスクで資料作りをしている時に配偶者への言付けに気がついたら、ちょっと仕事を止めてLineを送ってしまうとか・・ 食事中に10年前の写真が頭をよぎったら、その写真を引っ張り出して見てみるとか・・

なんでもその時直ぐできることばかりではありませんが、できそうなことならその時片付けてしまった方がいいということです。自分のような高齢者の場合、何かをしていた時にそれを中断して「気が付いたこと」をすると、もともとやっていたことの方を忘れてしまって、ほったらかしになるという弊害もあるんですが! 「気が付いたこと」にはやっぱりその時にする意味がある場合が多いと思うんです。それが人生全体の流れになっていく。逆にその時にしないと失っているものがある場合があると思います。

ホオポノポノのKR女史が、子供たちが庭に持ち出したマグカップが、「早く私を片付けて!」と訴えていたのを、「直ぐに戻って片付けるわ。」と言って、その時していた洗濯などの用事を済ませてから庭に行ってみるとマグカップが割れていた、というエピソードを本に書いていました。失われたのは物だけではないということですね。

「気が付いたときに、その気が付いたことをする」、それが習慣化して生活の流れになってくると、人生の流れに淀みの時期が減ってくると思います。いつも自然に坦々と生きられるようになってきます。自分という存在を、皮膚で囲まれた肉体の中だけでなく、もっと大きな意識存在として捉えた広がりの中で、必要なことを坦々とするという感覚に繋がって、人生の流れ、リズムがシンプルに整ってくると思います。少々日常を乱される出来事が起きても、意識、心はそんなに乱れないで起きることの流れを俯瞰するようにしていられる、そんなふうに変わってくると思います。

さて、少し眠くなったのでそろそろ寝る準備をしましょうか。

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『既存の知識に捕らわれず、内側から湧いてくる気づきを優先する』

さて、「これから塾」今回は10訓3番目の『既存の知識に捕らわれず、内側から湧いてくる気づきを優先する』です。

初めに「知識」についてですが、知識とは主に外部の情報を学習してそれが記憶に定着したしたものです。この知識を得る活動を、私たちは脳の中で人間の脳と言われる大脳新皮質で行っています。意識としては、通常私たちが何か思ったり考えたりする顕在意識の領域になります。知識とは、枠組みを見直すなどある程度自分で意識して扱わない限り、絶えず変動する宇宙の中にあって、固定された情報になります。

これに対して「気づき」は、私たちの内側から浮かび上がってくるものです。内側とは潜在意識や深層意識の領域で、係る脳の部位としては、ざっくりと捉えるなら、潜在意識が哺乳類の脳と言われる大脳辺縁系、深層意識が爬虫類の脳と言われる脳幹になります。意識領域の大きさの比較としては、顕在意識が5~10%くらいで、潜在意識・深層意識が90~95%くらいとよく言われますが、情報の処理能力としては、潜在意識が顕在意識の100万倍くらいのスピードで絶えず情報を処理していると言われます。そこにはその情報処理スピードに見合った膨大な潜在記憶・深層記憶が存在していると言えます。また深層意識は集合無意識の領域に繋がっていますから、内側と外側の境目がなくなります。

「気づき」とは、そうした領域から浮かび上がってくる必要な情報を、顕在意識が捉える行為です。「気づき」とは、浮かび上がってくる必要な情報に理屈抜きに反応するという仕組みである点が重要だと思います。

そして、これからは人により形は様々だと思いますが、顕在意識と潜在意識・深層意識の統合が進む時代になると思います。固定された知識体系に縛られた生き方から、絶えず変動するけた違いに膨大な情報の中から浮かび上がってくる自分に取って必要なものをベースにした生き方に、自然に変わって行くのだろうと思います。