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『クォンタム・エネルギーが喜ぶように生きる』

さて、「これからの時代の生き方-10訓-」いよいよ最後の10番目は、『クォンタム・エネルギーが喜ぶように生きる』です。ほとんどの人が「なんのこっちゃ?」というリアクションになるでしょう。

「エネルギーは喜びである。」とは、イギリスの詩人、幻想芸術家、神秘思想家であるウイリアム・ブレイクの言葉です。若い頃に自分がこの言葉に接したのは、コリン・ウイルソンの著作の中でしたが、何か感じるものがあったのでしょう。そんな体験を通して、考え方のベースが唯物論ならぬ唯エネルギー論になっていきました。

「科学者ではない自分の立場で考えて、有限の言葉を使って表現するならば、宇宙は「エネルギー」のありようだ、という表現になります。超ひもの振動も、膨張する巨大星雲もエネルギーであり、創造主がいるならそれも含めて、「ある」ということは様々なエネルギーのありようのひとつとして、宇宙を存在としてのエネルギーのありよう、と見てはいけないのだろうかと思います。唯エネルギー論とでも呼びましょうか。」 これは2016年に書いた論文「クォンタム・マネジメントのすすめ」の一節です。

少し長くなりますが、もう少し引用します。

「超ひも理論にいう10次元というと、4次元時空帯を超えた余剰次元をイメージしなくてはなりませんが、10次元で動き回る存在の基本構成単位である「超ひも」の集合体が宇宙であり、その余剰次元で、活動実態としては捉えにくいエネルギーの波動やスピンという活動をしている「超ひも」の広がりが、場(フィールド)として認識されることになります。ですから場(フィールド)は、絶えず活動している、動いている、変化しているエネルギーの活動が示す領域であり、固定された広がりである空間ではありません。固定された空間など宇宙には存在しません。それは私達の限られた認識能力が捉えた4次元時空帯に限定された、私達の認識でしかありません。存在するものは、活動する「ある」ものであり、「エネルギー」という言葉が、一番このイメージに近いと思うのです。

時間も同様です。私達が認識する時間とは、4次元時空帯で事象と事象の間に相対的に定義されるものです。余剰次元には、4次元時空帯のような宇宙はいっぱいあるというのが最先端の理論物理学の仮説になります。ユニバースではなくマルチバースの考え方です。そこでの存在主体である活動する「超ひも」は、活動しながらその活動の軌跡が干渉パターンとしてプールされていくと、デヴィッド・ボームは「全体性と内蔵秩序」で論じています。(文献:デヴィッド・ボーム「全体性と内臓秩序」井上忠他訳 青土社 1996年) それが場(フィールド)になります。活動しながらその全てを記憶していくという変化を毎瞬毎瞬絶えず繰り返しているのが、余剰次元を含めた宇宙なのだと思います。だからそこには私たちが想像しうるどんな情報も、微に入り細に入り初めからプールされているのです。ですから4次元時空帯を構成する時間軸情報には、余剰次元から見れば過去も未来ありません。初めから全ての情報が「既に」いつでもあるのです。

存在としてのエネルギーは、その活動領域を場(フィールド)とすれば、毎瞬毎瞬の活動の軌跡を干渉パターンとしてプールしていく仕組みを内包している訳です。アーヴィン・ラズロはこうした点について、情報場、アカシック・フィールドとして、膨大な論考を著わしています。(文献:アーヴィン・ラズロ「叡知の海 宇宙」日本教文社 2005年)

 私達の人体を構成する炭素、水素、酸素、窒素などの原子は、生体の代謝活動で5年もすると全て入れ替わると言われます。しかし、私達が自分のままでいられるのは、遺伝子、DNAなどに私達の生命体としての情報がキープされているから、と言うのがひとつの理由でしょう。しかし、クォンタムのレベルで見たらどうでしょうか。10次元の「超ひも」の振動やスピンでできているクォンタムは、原子のようにものとしては捉えられないものです。今仮に私が1メートル動いたとします。それでも私は私のままですが、一体何が動いたのでしょうか。10次元の「超ひも」がそのまま動いたのでしょうか。この点も、存在としての「超ひも」の活動である波動の干渉が、干渉パターンとしてフィールドにキープされるとすれば、それが情報として、メモリーとして維持されながら動いたと考えることができます。私というフィールドにキープされたミクロの波動の干渉パターンである情報が、私という情報をキープしたエネルギー状態のまま動いたということです。

ディーパック・チョプラは、「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」(文献:ディーパック・チョプラ「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」渡邊愛子訳、「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法(実践編)」渡邊愛子訳 フォレスト出版 2014年)の中で、次のように述べています。

『人間の心と体は意識の一部で、考える知性の場です。心と体は、私たちの存在の毎秒ごとに、非局在的な宇宙と、エネルギーと情報を交換しているのです。ただ、私たちはそれを無意識に行っているというだけです。』

私たちは宇宙全体に繋がってエネルギーとして存在している場(フィールド)そのもので、敢えて言えばそのある部分です。それが、客観的にみた存在の姿です。私たちが私たちの肉体を自分だと思っているのは、大脳新皮質の顕在意識の活動である自我が、そのように限定的な捉え方をするからです。」

さて、これからの時代は、エネルギーの集合体である私たちが、全宇宙(マルチバース)に繋がって、そのエネルギーが喜ぶように生きる時代です。「なんのこっちゃ?」ですが、次回からもう少し分かりやすく書く努力をいたします。

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これからの時代の生き方-10訓- 番外編 『女性性の時代へ』

世界経済フォーラムによる男女平等ランキングで、日本は156ヶ国中120位とのことで、さもありなんですが、先日も少し書いたように、女性の時代とも言えるこれからの800年期で日本が世界の中心になって行くのだとすると、これから何が起こるのでしょう。この点について、ちょっと思いついたことを書いてみます。

先日、「今の自民党政権の衰退と共に、今の政治とか経済とかの構造、体制そのものが徐々に衰退して行き、誰かがそれに取って代わるというのではなく、別の新しい形が目芽吹いてくるのだと思います。」と書きましたが、人間社会を機能・成立させている今の政治とか経済とかいう活動がなくてもちゃんと世の中が回って行くように、だんだん変わって行くと思うんです。必要な人との間には、勝手にネットワークができて、勝手に上手くものごとが進んでしまうようになるでしょう。お金はスムーズに世の中を回すための潤滑油くらいの感じでしょうか。

具体的に何かを決めたり、選んだりしてものごとを進めて行くとき、政治だとか経済だとか法律だとかに変わって、チャネリングとかシャーマニズムとかで余剰次元、高次の世界と繋がって、そこから受け取るメッセージを生かしながらものごとを進めて行くのが、これから当たり前になって行くように思います。まだ時間は掛るだろとうけど・・

昨年末から「風の時代」に入ったとも言われますが、これから誰でもスピリチュアリティが当たり前に求められる時代になるのではないでしょうか。今、スターシードとかライトワーカーとか、そういうスピリチュアリティをベースにした世界を求める人達がどんどん増えてきていると思います。自分は、スーパーチャネラーであるあまね理樺さんの「銀河の学校」に入学していろいろな学びを体験しているところですが、今そうした世界でできる友人の95%が女性なんです。こうした感覚、能力は圧倒的に女性が優れています。そして全くの推測ですが、日本の女性は世界的にもこうした能力の高い方が多いのではないかと思います。 だから、日本の旧態依然とした政治や経済や社会で女性の地位が上がらないのは寧ろ当然であり、世の中の仕組みがこれから変わって行く中で、女性の役割に急激な逆転現象が起きて来るのではないかと思います。

みんなスピリチュアルの時代になって、女性達がはつらつと活躍する、そんな未来が目に浮かびます。女性というよりは、女性性、母性、実際のジェンダーには限らない話ですね。

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これからの時代の生き方-10訓- 番外編 『ちょっと政治の話』

この先世界の中で日本がどうなって行くのか、少しだけ真面目に考えてしまいました。

今の自民党(自公)政権は、もう末期症状ですね。今の政権の問題点を上げると、既存の利権構造の上に政府も官僚もあり、中には少しは時代の先を見て変えていかないといけないと思っている人がいても、がんじがらめの利権構造とヒエラルキー構造で、どうにも動きようがないというところでしょうか。上層部の人達はもう思考パターンの変わりようがないから放っとくとしても、それより若い人たちは、政治家であっても官僚であっても、少しでも次の時代をよくしようと思って活動してもらいものです。

台湾のオードリー・タン大臣の「自由への手紙」を読みましたが、今の日本は台湾に遅れること30年という気持ちになりました。日本が遅れているのも確かですが、台湾が世界を先取りして進んでいる印象を持ちました。

オードリー・タンさんは多様性の本質を体現して生きていると思えるし、これまで世の中を動かしてきた政治とか経済という構造に、ハッシュタグが取って代わるという視点も、大変斬新で、目からうろこが落ちる気がしました。「誰かが決めた『正しさ』には、もう合わせなくていい」とは、正に自分軸で生きる時代を表現した言葉です。そういう人物が、4年前に35歳で大臣になっちゃった国があるのです。ハッシュタグが世界を動かすという発想で行けば、国という境界線は今よりずっと薄まっていい訳です。

これから時代が変わって行く方向については、これまでも色々なところで書いてきましたが、科学的・分析的思考から人間的・統合的思考へ、対立・競争から融合・共創へ、一方向の拡大成長から地球レベルの循環へ、もの中心からこころ中心の世の中へなどと表現できるでしょうか。

今の自民党政治がこれまでの時代の末期症状を呈していても、それに取って変わる力のある人たちが出てきません。今台湾が世界の最先進国になった印象を持ちますが、これからの世界、これからの時代の色々な論評の中に、日本が世界をリードする中心になるという論調を目にすることがあります。実際そうなるのではないのかと、心のどこかで思っていたりもします。

千賀一生さんの「ガイアの法則」では、文明周期800年説の西暦2000年頃から始まる新たな800年の世界の中心地は東経135度上、日本の明石、淡路島辺りになると言われます。これは地球の歳差運動による太陽系、銀河系の中での地球の磁場変化に伴う地球のエネルギー状態によるものであり、先ずそのようになって行くのでしょう。これまでの西暦1200年頃から始まった西回り文明の800年では、経度0度のロンドンに中心地が動く前にポルトガル、スペイン、オランダの時代がありました。これからの東回り文明でも、明石、淡路島に中心地が動く前に、台湾に中心地が来る、もう既にそんな動きが出て来たのかと思います。

日本では今後少し時間(きっと70年くらい)をかけて、東経135度文明の形ができていくのでしょうが、それは自民党に代わる新しい勢力が台頭してきて、今の政権勢力に取って代わるというような形にはならないでしょう。今の自民党政権の衰退と共に、今の政治とか経済とかの構造、体制そのものが徐々に衰退して行き、誰かがそれに取って代わるというのではなく、別の新しい形が目芽吹いてくるのだと思います。

そしてそういう新しい世の中の形、在り方、仕組みが、台湾や日本からハッシュタグで世界に広がっていく。そんなふうになるのかも知れません。それまでにはもう少しの間、いろいろガチャガチャしたことが日本でも世界でも起こることでしょう。

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『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』(その3)

先週我が家に2匹いた愛犬の内の1匹「ゆず」(ミニチュアダックス)が、急に亡くなりました。心筋梗塞でした。保護犬のため正確ではないのですが14歳くらい、丁度小型犬の平均寿命を生きたことになります。もう1匹も保護犬でテリアミックスの「大ちゃん」ですが、7年前に2匹一緒に我が家にやってきました。名前の由来はフィギュアスケート好きのファミリー故、羽生結弦選手と高橋大輔選手から頂戴したものです。

亡くなった日にチャネリングしたところ降りてきたメッセージは、「僕はちょっと先に行くけど大丈夫だよ。一緒に暮らせてすごく良かった。幸せだった。ありがとう。」、そしてその次の日に降りてきたメッセージが「昨日すごく良かったって言ったのは、お互いに色々浄化できたっていうことだよ。」でした。

みなさん、こんなチャネリングメッセージを信じますか。クォンタムの領域ではクォンタムを媒体にしたクォンタム・コミュニケーションが成立します。情報はクォンタムの波動の干渉パターンとして、色々な形で残り、色々な形で伝わります。それをクォンタム・コミュニケーションと勝手に呼んでいます。

こんなメッセージが降りることを、信じるか信じないかは一人ひとりの自由です。でも、そんなことありえないと言って否定しまうよりは、素直に受け入れる方が心が安らぐ場合が多いと思います。多分昔の人達は、死んだ人や動物たちからメッセージをもらうことを、当たり前にやっていたのではないでしょうか。そんなことありえないと否定し始めたのは、科学の時代になってから。長く見ても300年前くらいからでしょう。ホモサピエンスの歴史にすれば30万年当たり前にやってきたことを否定してやらなくなってしまったのは、せいぜいここ300年くらいだと思います。

さて、「ゆず」からのメッセージにあった「お互いに浄化できた。」とはどういうことでしょうか。私たちには、これまで生きてきた中で体験してきた様々なことが情報として、記憶にあるなし関わらずクォンタムのミクロな波動の干渉パターンとして残っています。それは今回の人生だけでなく、何回も生まれ変わってきた過去生も含めてです。それをインド思想や仏教ではカルマと呼んだりしますが、いいこととか悪いこととかに関係なくすべてです。

「ゆず」には、薬をバナナの中に入れて与えるとき、勢い余ってよく指まで噛まれました。どうしても腹を立ててしまうことがありました。トイレットトレーニングができていなかったのでペットシートから外しまくり、1日何回掃除したか。散歩嫌いで固まって動かなくなるので、行きは抱っこして行き、帰りはしかたなくノロノロ歩く「ゆず」にペースを合わせる日々。「ゆず」はそんなこんなをどう思っていたのだろう。食べたいときに食べたいたけ食べさせてもらえない。寝ていたいのに起こされて歩かされる。遊んでほしいときにはかまってくれない。

こうしたちょっとした何気ない日々の出来事によって波動の干渉パターンが書き換わり、次に進んでいく形になることがあるのでしょう。それを「ゆず」は「お互いに浄化できた」と呼んだのではないかと思います。

車からダンボールに入れた「ゆず」の遺体を運ぶとき、散歩のときの「ゆず」の重みを思い出して涙があふれてきました。悲しみの涙を流したのは何十年振りだったろう。これも浄化なのだろう。一緒に暮らすことで、知らず知らずの内に深いところで浄化が進んでいたのでしょう。ありがとう!

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『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』(その2)

本日スピ友で上海在住の三井さんと、ZOOMで繋がってボイジャータロットリーディングの練習をしました。

ボイジャータロットは、ジェームス・ワンレス博士が、占いに用いる伝統的なタロットカードに代えて、21世紀からの新しい時代に向けた、人生のロードマップを示すカードとして作られたものです。引いたカードには、潜在意識や深層意識、ハイヤーセルフと呼ばれる高次の存在からのメッセージがナビゲーションのように現れます。聞きたいことをカードに投げかけて引いてみると、驚くほど示唆に富んだメッセージがカードから読み取れるものです。

カードは78枚あるのに、同じカードが続けざまに出たりすることは日常茶飯事です。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。詳しい理屈を書こうとすると長くなってしまうと思うので控えますが、私たちの手の動きがクォンタムならカードもクォンタム、私たちの表面の意識がクォンタムなら深い意識もクォンタム、過去や未来と呼ぶものがクォンタムなら今この瞬間もクォンタム、宇宙にあるものは全てクォンタムの活動に外ならず、クォンタムには同調する性質があるのです。

凄いメッセージが当たり前のように出ることに、そんなこと有り得ないとか、たまたま偶然だとか思うのは自由ですが、素直に受け入れた方が豊かな日々を送れる場合がたくさんあると思います。

さて今日は三井さんとお互いに相手のことを読み合ったのですが、三井さんが読んでくださった私と私のビジネスとの関係、ビジネスの今後については、

  1. 私がこれから始めるヒーリングビジネスをどう思っているか:Star
  2. これからのヒーリングビジネスが私をどう思っているか:Ecstasy
  3. 両者の関係性:Empress
  4. サポート、何に注意すればいいか:Guardian
  5. ギフト:Knower
  6. そのサポート:Synthes
  7. 今日得られたもの:Death

で、ひとつの流れにしてみると次のようです。

『灯台のように光で照らす仕事で楽しく人々に喜びを与えられる。仕事が、慈愛を持って命を育んでいける関係になる。ただ、あまり人の意見とかに振り回されずに自分の内側を見ていくように。そうすると真理に目覚め、感覚的なものと理論的なものが統合されて、自分の仕事の世界が新たに創造されていく。』 ちょっと凄すぎだけど、素直に受け入れることが、メッセージとの同調の鍵になると思います。

クォンタムの在り方に目を向けて生きていくと、楽しい時間が増えますよ。

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『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』

少し時間が空いてしまいました。

「これからの時代の生き方-10訓-」の9番目は、『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』です。「クォンタム」が出てくると、あれもこれもと色々書きたい内容が湧いてくるので、次の10番目『クォンタム・エネルギーが喜ぶように生きる』と合わせて、何回かに渡るかも知れません。

まず初めに、「クォンタム」って何なのか、自分の定義めいたものを述べておく必要を感じます。英語のQuantumを日本語に訳せば「量子」です。この量子力学でいうところの「量子」と素粒子物理学でいうところの「素粒子」は、同じものと思うのですが、とらえ方の方向が違っているのだと思います。エネルギー・物理量について宇宙のもっとも基本的な最ミクロの構成単位を追及していった結果、現れたのが「量子」という物理量の基本単位です。一方、宇宙を構成している「物」をミクロにミクロに追及していった結果たどり着いたのが、「素粒子」という基本の粒です。これ以上ミクロなものはない究極の宇宙の構成単位が物理量としてみれば「量子」、粒としてみれば「素粒子」なのですが、ここでは両者をまとめて宇宙の基本構成単位として、日本語英語の「クォンタム」を使わせいただきます。

宇宙の究極の基本構成単位としてたどり着いた「量子」「素粒子」ですが、これをもってしても物理学的に宇宙に存在する4つの力「強い力」「弱い力」「電磁力」「重力」のすべてを説明することができないのですね。特に「重力」を他の力と同じ構成単位で説明することが物理学の課題でした。それを一応説明した形になっているのが「超ひも理論」です。

物理学素人である自分の勝手な解釈がかなり入ってしまうのですが、「量子」や「素粒子」よりももっとミクロな基本構成単位を「超ひも」とすることで、宇宙のすべてのありようが「超ひも」で説明できるというものです。「超ひも」とは、10のマイナス35乗メートルくらいの長さの一見ひもの様にとらえられるエネルギーの振動とかスピンで、それが宇宙のあらゆるものを作っている最小構成単位だということです。これ以上ミクロなものはもうないということです。宇宙の中にあるものは、何から何まで全部この「超ひも」で出来ているということです。そしてこの「超ひも」は、物理学的に11次元の存在なんですね。

そんな訳で、自分は「クォンタム」という言葉の中に「超ひも」も含めているというか、ほとんど「超ひも」の意味で使ったりしています。この点、どうぞご了解ください。

さて、5年前に書いた論文「クォンタムマネジメントのすすめ」の中で、「クォンタム」の性質を下記のようにまとめました。

・クォンタムは、これ以上分けることのできない不連続な物理量(活動)単位です。

・クォンタムは、粒子性と波動性の二面性を持ちます。

・クォンタムは、観察しようとする観察者の姿勢が、観察対象のクォンタムの存在状態に影響するため、純粋に客観的な存在状態が掴めません。

・クォンタムには不確定性原理と呼ばれる性質があり、クォンタムの存在する位置を特定しようとするとその運動状態が特定できず、逆に運動状態を特定しようとするとクォンタムの位置が正確に特定できなくなるというものです。これは、ニュートンの古典力学ではあり得ないことです。

・クォンタムはその波動性から、ひとつのクォンタムが複数の場所に共存することができます。

・複数の場所に存在するひとつの波動性のクォンタムを二つの入れ物に分けて入れることができますが、この二つの入れ物を、距離を離してから中身を確認すると、先に確認した方の入れ物の中に粒子としてのクォンタムが観察されることになります。これをクォンタムの、波束の収縮と呼びます。

・クォンタムは、一度関係性が付与されたクォンタム同士が、距離が離れても同時に作用し合います。これはベル(ジョン・ベル)の定理と呼ばれ、アラン・アスペによって実験的に検証されています。これに関連して、即時的遠隔作用、クォンタム・エンタングルメント(量子のもつれ)、量子相関、量子同調、クォンタム・トランスポーテーションなどの言葉で語られる性質が導き出されます。

さてどうでしょう。私たちは、こうたたけばこうはね返るというように、動き方が決まっている存在ではありません。つかもうと思ってもつかめない存在です。同時に複数の場所に存在したり、宇宙の果てと同時に回転したり、干渉して固まったり、そんな性質の「クォンタム」の集合体が私たちです。私たちはそのことを、肝の奥に叩き込む必要があるのです。

『原子や分子よりもミクロなクォンタムを基本に生きる』、「クォンタム」の性質を踏まえた生き方、世の中の在り方を、この後色々な面から考えていきたいと思います。

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『何かをしているときは、そのしていることになりきる』

コロナの感染者数が結構急に減っていることに驚いているのですが、東京の緊急事態宣言が解除になったら、火曜日の麹町のヒーリングサロンを再開しようと思います。それと一緒になるか(?)、ZOOMを使った遠隔ヒーリングを始める準備を進めています。

さて、「これからの時代の生き方-10訓-」の8番目は、『何かをしているときは、そのしていることになりきる』です。

37,8年前の話になりますが、通っていた瞑想道場での教えに「超作」という言葉がありました。

何かをしている時に、そのしている行為になりきるというものです。掃除をしている時は、掃除をしている行為になりきる。漫画を読んでいる時は、漫画を読んでいるという行為になりきる。味噌汁を飲んでいる時は、味噌汁を飲んでいるという行為になりきる、というものです。集中して行うというのとは微妙にニュアンスが違って、瞑想のマインドフルネスに近いでしょうか。禅にも歩きながら行う経行(きんひん)と呼ばれる禅行があり、同じような意識状態を作るもののように思えます。いまここで行っている行為になりきっちゃう、というものです。

瞑想は、一般の人が意識を変容させレベルを上げていくために具体的に取り組むものとして、誰にでも薦められるものだと思います。ただ、変容の仕方、進み方は人それぞれなので、他の人と比べっこするのは禁物です。この「何かをしているときは、そのしていることになりきる」も、生活全般で意識を変容・成長させることを、知らず知らずに安定的に即すものとしてお薦めです。

最近は、平易にやりやすく多面的な効果のあるマインドフルネスのような瞑想が普及していますが、もっと広まって人類レベルでの意識変容が進まないものかと思います。昔は、瞑想ひとつするのも瞑想「行」と呼んだりして、「ちゃんとしたグル(指導者)についてやりなさい。」と言われたものです。魔境に落ちるとか、よからぬものに憑依されるとか、結構脅されたし、実際いろいろなケースを目にし、体験もしました。大きな悪い事例としては、オーム真理教なんかもありましたね。

今は、地球レベルで波導というか地場というか、環境が変わっていて、そうした危険性は著しく減っているように思います。でも、改めて瞑想というと、毎日座ってそれを続けるには、一種の覚悟のようなものが必要でしょう。なので、座った瞑想でなくても、「何かをしているときは、余計なことは考えずに、そのしていることになりきる。」みたいなことを、実生活のなかで心掛けられないでしょうか。そんなふうに心掛けても、気がつくと直ぐに余計なことを考え始めているのが私たちの常ですが、思い出したらまた「何かをしているときは、そのしていることになりきる」を繰り返していると、「あれ、最近昔より随分気持ちにゆとりができてるな。」なんてふと気づいたりするものです。

小さな一人ひとりのちょっとした気の持ち方が、これからの世界を大きく変えていくのだと思います。

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『自然や周囲の環境を観察し、メッセージを受け取る』

コロナの影響がまだまだ続きますが、ワクチン効果も限定的と思えるし、もう2,3年は波状感染拡大がありそうですね。withコロナ、afterコロナの生き方を考え、定着させることが問われそうですね。

そこで「これからの時代の生き方-10訓-」の7番目ですが、『自然や周囲の環境を観察し、メッセージを受け取る』です。これは風水で言う外応に近いかも知れません。何か質問を心の中で投げかけると、その解答に結び付く現象が、身近な外界に現れるというものです。高次の自分とか深い意識になると、自分というフィールドが広がるのですね。だから肉体の自分から見た外界に自分フィールドがあり、そこにきめ細かな意識を向けてそのメッセージを受け取ることで、深い自分に繋がった生き方の体現訓練になります。頭で考えるのではなく、遊び感覚で、ふっと直感的にとらえるのがいいと思います。自分の場合は、何かしら鳥が現れたり、鳴き声が聞こえたり、特徴的な形の雲が出ていたり・・がよくあります。

ちょっと難しい話をすれば、量子・素粒子には即時的遠隔作用とかクォンタムエンタングルメントとかクォンタムエントレインメントとか呼ばれる存在としての性質があり、色々なものが量子・素粒子レベルでは繋がって同時に動いているということです。それがメッセージにもなるし、自分の広がりにもなります。

これまで私たちは、分子・原子レベルの反応までを科学的として学校教育でも学習し、実生活でもそこまでを科学的として生きてきました。これからは、もうちょっとミクロな量子・素粒子の存在法則を科学的と認めて、実生活でのもの見方を変えていく必要があります。科学的という言葉には逆行しますが、それは私たちがもっとずっと昔に当たり前にやっていたことを、色々見直す生き方に繋がります。分子・原子レベルの科学を信仰するあまり否定してしまった色々な習慣や風習を、もう一度見直してみたいものです。

自然や周囲の環境を注意深く観察してみましょう。そこにはきらめくメッセージが満ち溢れています。

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『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』(その2)

寒い日が続きますが、これから塾、今回は『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』の2回目、「他の人にとらわれない」です。

さて、他の人、そこには色々な人達が全て含まれますが、私たちはこの他の人達をどのように捉えているでしょうか。私たちには他の人が見えます。他の人の話が聞けます。他の人を感じられますが・・

ここにAさんとBさんがいたとします。あなたがとらえたAさんがいます。同じAさんをBさんがとらえたとします。あなたがとらえたAさんと、BさんがとらえたAさんは同じAさんでしょうか。同じAさんをとらえていても、あなたがとらえたAさんとBさんがとらえたAさんは、全く同じということはないですね。何故でしょう。

見るという行為を例に取れば、Aさんを見るということは、Aさんが反射している光(可視光線)をあなたが目でとらえて、その光の情報を頭の中でAさんという像にして描いていることになります。

私たちは、目で見ている世界がそのまま外にあるものだと思っていますが、あくまでも頭の中の立体3Dスクリーンに像を描いて、それをとらえていることになります。あなたが近視で、Bさんが遠視だったら、同じAさんの像にはならないですよね。視覚映像だけでも同じでない上に、普段私たちは自分の持っている知識とか、感情とか、思惑とかを含めて、自分が頭の中に描いた視覚映像をとらえることになります。自分というフィルターを通して見ているんですね。

それは像です。本物の姿ではありません。そもそも有限の認識の能力しかない私たちに、本当のそのものの実像なんて掴めるはずがないんです。自分というフィルターを通してとらえている他の人にとらわれてしまうということは、自分の中にとらわれる因子があるということです。

Aさんは確かにAさんとして存在している訳ですが、あなたにとってのAさんは、Aさんを通してあなたの中のとらわれ因子に気づくために存在してくれているAさんになります。だからそこに気づくことが大切です。逆にAさんから見たあなたは、Aさんのフィルターを通した像になります。あなたという存在が、AさんがAさんの中のとらわれ因子に気づく役割を果たしているのです。

このような相補的な関係が、どんなものの間にも働いているのがこの世の仕組みです。だからとらわれていることに気づいて、気づいて、気づいていく。そのことに気づけると人生は大きく変わっていくと思います。他の人にとらわれるのではなく、とらわれている自分に気づきましょう。気づいたらそれを直すとかではなく、そんな自分に気づけばそれでOKです。

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『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』

明けましておめでとうございます。

年明け早々首都圏は緊急事態宣言になってしまいましたが、これも次の時代に進むために必要なステップ(?)と、冷静に受けとめて坦々と進んでいきましょう。

「これからの時代の生き方-10訓-」ですが、今回は6番目の『将来のこと、過去のこと、他の人にとらわれない』です。

時間軸の話を以前しましたが、宇宙には時間という流れるものが存在している訳ではありません。存在しているのは、毎瞬毎瞬のエネルギーのありようだけです。エネルギーのありようのある部分を捉えて、時間として定義しているのです。

存在しているのは今この瞬間だけです。この瞬間が、次の瞬間、次の瞬間と刹那滅を繰り返して繋がっていくのが宇宙です。だから過去とは、今この瞬間に内在している以前の記憶や記録情報ということになります。今この瞬間に残っている記憶や記録は、次の瞬間に向かって変わることがありますし、変えることができます。時間軸を遡って固定された過去というものはないのだから、そんなものにとらわれる必要はないのですが、これにとらわれた時に湧く感情の代表が、「後悔」でしょうか。

実際はどうでしょう。今この瞬間にあるものは、ほとんど同じように次の瞬間に受け継がれて行きます。この原理の説明は、クォンタムの説明のところでゆっくりしたいと思いますが、存在は、次の瞬間も同じように存在しているととらえられるから、そうやって存在してきた過去が存在しているととらえられてしまう訳です。禅問答みたいですね。

今この瞬間に内在する以前にあった記憶情報に毎瞬毎瞬とらわれてしまうのは、毎瞬毎瞬これに反応している感情のスピードが、顕在意識でものを考えるスピードより圧倒的に早いからだと思います。だから今この瞬間を見つめる意識になって、ゆったりした呼吸を繰り返していると、とらわれ方は随分変わってくると思います。マインドフルネスですね。

将来のことにとらわれるのも、原理は過去と同じですね。存在しているのは今この瞬間だけですから、時間軸の先の未来はありません。あるのは今この瞬間に内在する未来予測情報です。その予測がこれから先の瞬間において現実になる可能性は結構高かったりするのですが、予言や占いが当たるのは、それなりの存在法則があるからです。(これについても、いつか書きたいと思います。) 将来のことにとらわれる今この瞬間の感情の代表として「不安」がありますが、瞬間の中に「不安」がある訳ではありません。だから今この瞬間を見つめる意識になって、ゆったりした呼吸を繰り返していると、将来へのとらわれ方は随分変わってくると思います。

過去と将来で随分長くなってしまったので、「他の人にとらわれない」は、次回にしようと思います。

みなさま、感染に気をつけて元気にお過ごしください。