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『「ある」ということについて』

少し時間が経ってしまったのですが、5月21日の朝の瞑想中に次のようなメッセージが湧いてきました。

すべては「ある」だ。全部「ある」だ。

ブッダも聖者もそれを悟った。

不調な部位も、犬の鳴き声も、

家族に対するポジティブな思いも、ネガティブな思いも、

過去生も、その記憶も、

みんな「ある」だ。

だからその「ある」を全部受け入れる。

「ある」を全部受け入れていること、

それが当たり前だ。

それ以外に何もない。

宇宙の中には「ある」ものしかない。「ない」ものはなにもない! 宇宙は「ある」の集まり。

物理学的に言えば、それが全部「超ひも」の活動になる。「超ひも」の活動の集まりになる。

「ある」だけがある。こんな当たり前のことを実はみんなよく分かっていない。

自分の中によくない面、よくない自分は色々ある。でも、それは確かに「ある」のだからそれを認めればいい。

それを認めないで否定しようとするからおかしくなる。みんな「ある」、ただただ「ある」、それだけていい。そういうことだ。

以上ですが、ちょっと自分なりに補足してみると、私たちが認識できるものは変化しているものです。私たちは変化を認識しているのです。宇宙の最小構成単位の「超ひも」は絶えず振動し、スピンし、変化しています。宇宙は変化の集まりであり、そこに「ある」一斉のものが私たちの認識対象です。

「刹那滅」という捉え方をすると、この「超ひも」の活動が毎瞬毎瞬生滅を繰り返していることになります。毎瞬毎瞬「ある」状態と「ない」状態が入れ替わり、それが繰り返されているということです。

この「滅」の状態を「ゼロ・ポイント」と呼んだりします。それは変化していない、すなわち認識できない状態です。瞑想して、この認識できない状態に意識を向けて認識しようとすると、勿論認識できないのですが、満たされた、調和した感覚が生まれるんです。

不思議です。それが本当の「ある」体験なのかもしれません。一度試してみてください。

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『「ある」ということについて』」への2件のフィードバック

  1. 旧約聖書の創世記の冒頭には、神が天地創造の際に「光あれ」と言われたことが書かれています。そこからすべてがはじまりました。あらゆる「ある」を無条件に受け入れることは、クリスチャンにとっても正しい道なのかもしれないと考えました。

    1. いわたさん、コメントをありがとうございました。
      「ない」を何も「ない」とすると、神も「ある」になってしまうんですね。
      そうすると、本当の宇宙の始まりってどんなだったのかとか、そもそも宇宙に始まりは「ある」のかとか、考え出すとキリがないのです。
      先ずは自分が「ある」のだから、「ある」を受け入れることは大事かなと・・

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