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『風の時代を行く』客観性から主観性へ(バーチャルリアリティ?)

~実在とバーチャルリアリティのはざまで~

客観性から主観性へ(バーチャルリアリティ?)

 「風の時代」のひとつのパラダイムを考えて「自分軸」がそれに繫がると思いました。それについて書こうとしたら、これまで3回「客観性」とか「比べっこ」について書くことになってしまいました。

 「自分軸」はやっぱり「客観性」よりは「主観性」を重視して行くことだと思うのですが、この辺で「風の時代を行く」のサプテーマにしている「実在とバーチャルリアリティのはざまで」について少し書いて見たくなりました。このシリーズの3回目に書いた「みんな何を見ているの?」の続きのような感じになるので、少し長くなりますがもう一度その部分を見てみます。

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 実は私達が捉えている世界は、何に限らず私達がそれぞれの知覚能力で捉えた情報を、私達の内側で解析して描いている像に他になりません。そしてその像は私達の内側にあります。外側ではありません。この内側に描き上げている固有の像の世界から、私達は生まれてから死ぬまで一歩も出ることなく過ごしているのです。それがみんなに共通の客観的な世界だと信じて!

 結構強烈なことを書いてしまいましたが、皆様はどう思われるでしょうか。飽くまでも個人的な見方なんですが、私達は自分で捉えて解析して、自分でそれを描いた世界の中で生きていることを腹落ちさせることがとても大切だと思うんです。「風の時代」「自分軸の時代」はそれが求められると。

 これからの時代は、この客観的と思い込んでいる視点に、もう一度これは自分独自の視点なんじゃない!と念押しをしていくこと(一種のメタ認知)が必要になると思います。自分自身の視点、すなわち主観的な視点を重視して生きて行くことが大切だと思うのですが・・・

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 哲学者のカントは、世界に本当に存在しているものを「実在」としました。これは古代ギリシャのプラトンが語った「イデア」に近いもののように思います。私達には「実在」を「実在」のまま、そのまま捉えることができません。私達の存在、ものを捉える能力があまりに限定的だからです。私達が持っている認識能力、知覚能力を使って「実在」を捉えて描いた世界が「現象」になります。私達は本当に存在している「実在」世界を遥かに巨視的に捉えることしかできません。遥かーーに巨視的にです。そしてその捉え方は人それぞれです。存在の数だけその存在が捉えた「現象」の世界が生まれます。これが世界の在りようです。

 科学者は科学的方法で「実在」に迫る努力を続けています。特に物理学がそれをストレートにやっている学問になるのかなと思います。その物理学が今のところ一番「実在」に近づいたと思える理論が「超ひも理論」です。存在を作っているものをミクロにミクロに見て行ったら、今のところ「超ひも」に行き着いているという感じです。「超ひも」がどういうものかという説明はここでは控えますが、宇宙を作っている最ミクロの不連続な構成単位として「超ひも」というものを想定すると、宇宙の様々な現象を全てこの「超ひも」を使って説明できる理論になります。

 「超ひも」というものを私達は見ることはできません。それは、プランクスケールという10のマイナス35乗メートル以下の世界だからです。その「超ひも」が宇宙を構成している究極の単位だということは、宇宙にあるものは全て、宇宙で起こっていることは全て「超ひも」の活動の集まりになります。だから「超ひも」が本当に究極の構成単位なら、その活動の世界を「実在」と言っていいのかなと思います。

 その「超ひも」の世界、「実在」を私達は巨視的に、極めてアバウトに、人それぞれに「現象」として捉える訳です。それでも私が捉えている「現象」世界と、あなたが捉えている「現象」世界は、かなり似たものだと思います。その似たもの対して、私達は同じということにしようという暗黙のルールを作って生きています。これが「客観性」というルールです。これが無いと人と何を話しても通じ合うことが困難で、疲れてやっていられなくなります。コミュニケーションがほとんど成立しなくなると言う感じです。何事に付けやっていられなくなっては困るので、普段私達は客観性の軸を持って活動しています。

 でもちょっとそれが行き過ぎて、みんな同じように品質管理して、規格品を製造するような教育が続いて来ました。ここに来て、最近の若い人達は宇宙的な流れでそれに合わない変化をし始めたようです。もう「風の時代」を先取りして生まれてきている一部の若い人達には、明治時代から続いている現代の教育は合うはずがありません。この宇宙スケールの変化はどんどん進んで行きます。

 教育は少しずつ変わって行く動きが見られますが、これまでに既に育ってしまっている大人達の方が、宇宙の流れ、「風の時代」の流れについて行けないミスマッチがこれから増えて来るでしょう。

 世界はあくまでも自分が捉えている「現象」なんだと分かったら、それは全部自分、自分の内側なんです。そんな一人ひとりが「実在」を捉えてその人なりに描いている「現象」の世界を「バーチャルリアリティ」と呼び変えてもいいと思います。私は本当にその「バーチャルリアリティ」が、私達が普段捉えている世界なんだと思っています。もしその中で人と喧嘩をしたら、それは自分の中でやっている独り相撲の喧嘩になります。

 だからひとり相撲の喧嘩、イライラなんかもう止めて、自分のバーチャルな世界で、みんなもっと自由に遊んでいい訳です。今あなたが見ているのは「現象」というバーチャルリアリティ、そんな風に思えると世界は一変します。そんな視点を持つことが、既に育ってしまった大人達に今求められているような気がします。

 イライラも悩みもみんなあなたのバーチャルリアリティでやっているひとり相撲。もうそれやめて、風になって舞いましょう!

 今回は、書いていたらかなり支離滅裂な展開になってしまいました。少しずつ補足して行けたらと思います。

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『風の時代を行く』もうやめよう!「比べっこ」②

~実在とバーチャルリアリティのはざまで~

もうやめよう!「比べっこ」②

これまで「風の時代」は自分軸で生きる時代と言ってきましたが、それは前回ちょっとお話ししたところの「自立意識」の時代と言ってもいいと思います。優劣、良し悪し、善悪(正義と悪)、正誤などの「比べっこ」をやめて、違いを違いのまま受け入れて生きて行くことです。

 前回書いたなんでも「比べっこ」する「優越意識」について、現在人の多くがこの階層にあると言いました。顕著にこの性格が出ているのが、政治家とか、会社など色々な組織の上層部の人達とか、権威をかざす学者さんや評論家とか、コメンテーターとか、ジャーナリストとか、インフルエンサーとかかなと感じます。一般の人達でも上昇志向の強い人は大抵この意識階層にいて、自分が正しいという前提でものを考える特徴があります。それが極端な人達が政治家に多く見られ、私はそういう人たちに自己愛性パーソナリティ障害のレッテル貼ったりしてしまいます。

 以前勝手にその象徴にしていたのが、銃撃され亡くなられた安倍元総理大臣でした。国会で118回虚偽答弁をしても、「嘘をついている私こそ正しい」と言わんばかりの方でした。最近の例では、差し詰め何かと問題を提供してくれている兵庫県知事なんかがどう見ても自己愛性パーソナリティ障害に見えますが、あれだけ叩かれても鬱にならずに平然としていらっしゃるので、演技性パーソナリティ障害もミックスなのかなと思ったりします。

 「もっとお金が欲しい」「上手く儲けたい」それが出来れば幸せ! みたいな価値観も、ベースにはこの「優越意識」あると言えます。そうした意識・価値観が、闇バイト、自民党の裏金問題、視聴率を優先するメディア、フォロワーを欲しがるSNS、コロナやSDGsなどの助成金に群がる人達なども生む訳です。一例ですが・・

 これからの「風の時代」は「自分軸の時代」になって行きますので、比べっこの意識が残っているとそこにはなかなか行けません。自分の自分軸と他の人の自分軸をそのまま認めて受け入れられないとなりません。

 これまでの社会の主流の考え方をテーゼとするなら、それを壊しにかかっているトランプやプーチンのような考え方がアンチテーゼになると以前書きました。トランプにしても、プーチンにしても、イーロン・マスクにしてもどう見ても「我こそが正しい」という視点で「比べっこ」する「優越意識」階層の人です。

 「風の時代」のベースになる考え方(パラダイム)は、こうしたぶつかり合いの先にジンテーゼとして現れて来るものと思います。それはオレンジ型社会からティール型社会への移行とも言えます。このティール型社会を構成する人達は優劣を付けるような「比べっこ」をしないで、違いを違いのまま受け入れてこれを楽しむことができる「自立意識」であることが必要条件のように思います。

 先に示した図では、これから「風の時代」を生きて行く「自立意識」の象徴としてオードリー・タンさんをピックアップしてみました。35歳で台湾のデジタル担当大臣に抜擢されたタンさん自身がトランスジェンダーですが、著書の「自由への手紙」では、「誰かが決めた『正しさ』には、もう合わせなくていい」と述べ、次のように自由になることを論じています。

・不平等から自由になる

・不安から自由になる

・年齢から自由になる

・競争から自由になる

・国家から自由になる

・対立から自由になる

・正しさから自由になる

・男と女から自由になる

・ジェンダー概念から自由になる

・家族から自由になる

・強制から自由になる

・ヒエラルキーから自由になる

・支配から自由になる

・言葉の壁から自由になる

・スキルセットから自由になる

・一枚岩から自由になる

・お金から自由になる

 変な基準軸を作って「比べっこ」するのはもう止めようと言う感じですね。私はこの「自由」という概念というか世界がとても重要だと思っていて、私達の究極の目標のように感じます。「風の時代」がどこまで自由な時代になるかはまだ分かりませんが、今よりは大きく自由に羽ばたくことができる時代になって行くと思います。そうしたいですね。

 言いたいことは何となく伝わるかと思うのですが、「優越意識」から「自立意識」への変容は、知識を教える教育で身に着けられるものではありません。自ら気づくことが必須と感じますが、この気づきを得るために思い付く方法を上げるとすれば、瞑想とダイアローグになります。

 今回はちょっと批判的なネガティブなことも書いてしまいましたが、次回はまた視点を変えて「風の時代」を見て行けたらと思います。

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『風の時代を行く』もうやめよう!「比べっこ」①

~実在とバーチャルリアリティのはざまで

 普段私達はものを見たり判断(ジャッジ)したりする時に、何某か物差しというか判断のベースになる軸を持っています。私達は生まれてからの家庭教育・学校教育・社会教育を通して、みんなに共通なものとしてたくさん知識を教え込まれて、それを共通の知見、軸としてものごとを判断して生きて行くように、知らず知らずの内に育ちます。

 でも前々回の「みんな何を見ているの?」で述べたように、実はものごとの捉え方は人それぞれ違っており、捉えた情報を基に作り上げている世界像もみんなそれぞれ独自のものだと言うことも否定できまません。

 こうしたことを(メタ認知的に)しっかり踏まえて置くことが大切だと思うのですが、今回は私達が共通の軸の上で行っていると思い込んで、ついついやってしまっている「比べっこ」について、少し考えてみたいと思います。

もうやめよう!「比べっこ」①

 今から40年以上前の話になりますが、私がまだ20代の時に某大手日用品メーカーの事業部で商品開発を担当していました。元々技術系のバックグラウンドだったのですが、事業部の商品開発は広い意味で言うマーケティング業務になります。担当になって少しは勉強しないといけないと思いマーケティングの本を読んだりしたのですが、よくマズローの欲求階層説が引用されていました。当時既に趣味的な世界で精神世界とか神秘思想の本をたくさん読んでいて、こうした本の中にもマズローの欲求階層説を引用しているものがありました。

 面白いなと思うと同時にこれは欲求階層だけれど、そのまま意識の階層に置き換えられると思いました。

 ここで言う意識階層は、顕在意識・潜在意識・深層意識と言った分類とはちょっと違ったものです。世の中では、その発展方向に対応してマジョリティの人達の意識の持ち方が変わって行くもので、それがマズローの欲求階層説に当てはまると感じました。ほとんど「欲求」という言葉を「意識」という言葉に置き換えただけだとも言えます。

 1番目の「生理的欲求」が「生存意識」に、2番目の「安全・安心の欲求」が「種族維持意識」に相当しますが、この二つが生物としての本能になります。3番目の「社会的(帰属の)欲求」が「集団帰属意識」に対応し、長い人類の歴史時代で一部のエリート層を除く一般の人達は、この意識を中心にして生きて来たと思います。

 宗教的規範のパラダイムから時代が科学的なパラダイム・実証主義のパラダイムに進み、社会的には産業革命が起きて1次産業中心の世の中から2次産業、更には3次産業に中心が移りました。こうした変化を組織の方から見るとアンバー、更にオレンジへの変化が進んだ感じでしょうか。そして、それに合わせてマジョリティの人達の欲求が4番番目の「自尊の欲求(承認欲求)」に成り、これが「優越意識」に相当します。

 この意識の特徴はみんなに共通と思われる評価軸を基に、優劣、良し悪し、善悪(正義と悪)、正誤などのポジショニングを行い、「比べっこ」することです。そしてほとんどの場合自分自身を良いとか、優秀とか、正しいとか、正義とかいう上の方、いい方に位置付けてジャッジします。今の世の中では70%くらいの人達がこの「優越意識」階層にいると、私は勝手に思っています。残りの30%の人は概ね「集団帰属意識」階層に居ると言えるでしょう。

 これから私達が向かうべき「自立意識」階層、違いを違いのままニュートラルに受止めて楽しめる意識の人は、まだ1%くらいかなと思います。

 今回取り上げた「優越意識」「比べっこ」の意識は、特に産業革命以降、資本主義社会を発展させる原動力になって来たと思います。より優れたものを考え、自らも優位なポジションを得ようという思いが、生産性の向上、より便利な生活環境、社会全体の進化、経済発展を生んで来たんだと思います。ある意味人間社会全体の進化のプロセスの必然でしょうか。

 そうした私達人類の進化発展を考えると、これまでの流れの弊害としての社会問題(例えば差別意識を生んだり極端な貧富の差を生むこと)や環境問題などが急速に顕著になって来ている昨今です。その問題のひとつのベースとなるところに、私達の意識が「優越意識」「比べっこ」意識の階層にあることが上げられないでしょうか。

 何故、優劣、良し悪し、善悪(正義と悪)などの「比べっこ」が必要なのでしょうか? 今回は少しこうした「比べっこ」について深堀しようと思ったのですが前段が長くなってしまいました。また次回に繋げようと思います。

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『風の時代を行く』客観性って何?

~実在とバーチャルリアリティのはざまで~

 前回の「自分軸パラダイム」の続きになりますが、今回は少し「客観性」というものを私なりに見つめてみたいと思います。

客観性って何?

 私達は生まれた後に、どうやって知覚や認識の能力を育んでいくのでしょうか。オギャーと生まれた時、私達ははっきりものを見る視覚を持っていませんがが、その時私達は何を見ているのでしょうか? どんな風に見えているのでしょうか? 

 一般には焦点を合わせることができずぼんやりと、色も白黒に近い視覚のように言われます。私のイメージですが、私達が目を瞑った瞼に見えるような世界を、赤ちゃんは目を開いている時も見ているのではないかと思います。

 その後1歳になるくらいまでの間に、機能として視覚能力がどんどん高まるプロセスで、赤ちゃんは周囲の人達、特にお母さんから「これはお花よ。赤いお花きれい、きれい」「あら、ちっちゃいワンちゃんかわいいね。お耳が黒いのね」なんていう教育を受けながら、その視覚能力を確かなものにして行くのでしょう。この言葉の学習と知覚が結びついて行く能力が1歳くらいから急速に高まって行くようです。そうした成長のプロセスで言葉と知覚を統合しながら、自分が捉えている世界、外界に客観性の概念が植え付けられて行くのだと思います。

 これが社会活動をするベースになって行くんですね。この共通の認識、客観性が生きるベースにないと、人間社会で生きて行くことは難しいでしょう。そこで改めて客観性についてChatGPTに聞いてみると、次のような回答でした。

・個人の価値観や先入観に依存しないこと

・誰が見ても同じ結論に至ること

・証拠やデータに基づくこと

・再現性があること(同じ条件なら同じ結果になる)

そして客観性を担保するために必要なことが

・エビデンス(証拠)に基づく

・複数の視点を取り入れる

・検証可能性を確保する

・ルールや基準を明確にする

・バイアスを排除する

とのことで、分かり易くまとめてくれて助かります。

 この「客観性」について自分なりに思うのは、私達人間が社会生活を送る上のルールなのかなと言うことです。円滑にトラブルことなく多くの人の中で活動する中で守るべき取り決めのようなもの? 法律はその象徴ですかね。

 例えば共通の物差しについてですが、1日を日の出から次の日の出までとするとか、1年を季節の一巡にするとかから時間を計り、それを更に地球の自転とか公転とかの天体運行にする取り決めにして、皆に共通な客観的な数値にします。そしてより正確な共通の軸にするために、今ではセシウム133原子の遷移に対応する放射周期から1秒を定義したりしていますが、今後更に誤差の少ない光格子時計への変更が予定されているようです。このように私たちは共通の軸を定義して、より客観性が担保できる数値化などを繰り返して私達の社会を作って来ました。

 現代という時代を見ると、改めて実証主義とも言える考え方が生き方のベースに潜んでいるように思えます。「証拠あるの?」「証明できるの?」「再現性は?」みたいな感じでしょうか。そのベースに客観性は不可欠ですよね。

 ただ、もともと日々の活動にこうした実証性を強く求めていなかった時代から、ことさらこれが求められるようになったのは、300~400年くらい前のことではないかと思います。その辺りが、様々な宗教観で生きていた時代から科学的知見をベースにした生き方の時代への変わり目ですね。その過程では、コペルニクスの地動説だとか、ニュートンの力学だとか、ダーウィンの進化論だとかが出て来て、実証できる世界観を重視する時代に時間を掛けて進んで行った感じです。そして、今の私達はこの科学的なことが正しい、実証できることが正しい、と言うものの見方に染まり切っています。

 実証主義とか客観性は現代を生きる私達の生き方のベースに浸み込んでいると思い、それを私は「物質サイエンスパラダイム」と呼んでいます。それは現代の社会生活を送る上で必要なものでしょう。特に客観性の物差しは、これがないと大変不便になるのは確かです。

 その上で敢えて言うのですが、これからの「風の時代」は前回の「みんな何をみているの?」で書いたように、私達はそれぞれ独自の知覚で世界を捉えて、その情報を自分の中で解析して描いた独自の世界観の中で生きているんだということを、どこかで分かって置く必要があると思うんです。主観的な視点がとても大切だということを。

 「地」のように固まっていて動くことがほとんどない世界から、これから「風」のように自由に飛び回る世界に世界観が変わって行く時代の流れで、ものごとの捉え方を自分軸でフレキシブルにして行きたいものです。

 また長くなりそうなので、今回はこの辺にします。

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『風の時代を行く』みんな何を見ているの?

~実在とバーチャルリアリティのはざまで~

 「風の時代」を思う時、そこには新しいパラダイムができて行くんだろうなと思います。それくらい大きな時代の転換が今進んでいるのだと感じます。

前回のコラムでそのパラダイムのひとつを「脱経済成長パラダイム」としてみました。これから時間を掛けて、みんなの根底のものの見方がそういう方向に変化して行くだろうという私の個人的な仮説です。

 もう少し「風の時代」のパラダイムに成って行くものがあると思うのですが、よく「風の時代」は「自分軸の時代」と言われます。この自分軸というのが結構これから大切で、これがひとつのパラダイムのようなものになって行くのかも知れません。

 そんなことを少し考えてみたいのですが、色々な方向に続きそうなテーマで、何回か書くことに成りそうです。

みんな何を見ているの?

 立春ですね。本格的な春はこれからですが花の季節の始まりです。犬の散歩に行ったら河原の公園にチューリップが見事に咲いていた、なんてことが昔ありました。今は犬を飼っていませんが。

 さて突然ですが、犬は人と同じようにチューリップを見ているのでしょうか? 同じように見えているのでしょうか? 試しに生成AIを使って人が見ているチューリップと、犬が見ているチューリップを描いてもらいました。(笑)でもなかなかこちらの意図が伝わらなくていい画像が出てきませんでした。そこで、人が見ているチューリップ、犬が見ているチューリップ、それに加えて蝶々が見ているチューリップを勝手に想像して作ってみたのが下の絵です。

 いい加減に描いたものですが、示したかったのは同じ花を見ても人と犬と蝶々では三者三様に違って見えているはずだという点です。ほとんどの方にこの点は支持されると思います。例えば蝶々に関しては紫外線を見る能力があることが分かっています。

 ここで私には次の疑問が浮かんでしまうのですが、人間ならみんな同じように見ているのだろうか?というものです。そんなことはないですよね。例えば、ド近眼の人と遠視の人に花は同じように見えないですよね。

 そしてこれに留まらず更に次の疑問が沸きます。どれが本物の花の姿なんだろうか?という疑問です。誰か答えられる人はいますか。

 くどくど書いてしまいましたが、視覚でものを捉えて見える姿は個体間で全部違うということですね。みんなそれぞれ独自の視覚でものを見ている。これ凄く重要なことだと思うのですが、普段私達はみんながみんな同じように物を見て、捉えていると思っていないでしょうか?

 もの見るという行為は、それぞれ自分の視覚能力で情報を捉えて、その情報を頭の中で解析して、その解析した結果を頭の中のスクリーンに像として描いているものです。

 先ず、この情報を捉える能力が個体間で違います。次に捉えた情報を解析する能力が個体間で違います。それを視覚の像として描き出す能力も個体間で違います。みんなそれぞれ違って見ていることは当り前です。

 ところが、この当たり前を当たり前と思わずに、みんな同じようにものを見ていると思い込んで普段私達は生きているんですね。

 実は私達が捉えている世界は、何に限らず私達がそれぞれの知覚能力で捉えた情報を、私達の内側で解析して描いている像に他になりません。そしてその像は私達の内側にあります。外側ではありません。この内側に描き上げている固有の像の世界から、私達は生まれてから死ぬまで一歩も出ることなく過ごしているのです。それがみんなに共通の客観的な世界だと信じて!

 結構強烈なことを書いてしまいましたが、皆様はどう思われるでしょうか。飽くまでも個人的な見方なんですが、私達は自分で捉えて解析して、自分でそれを描いた世界の中で生きていることを腹落ちさせることがとても大切だと思うんです。「風の時代」「自分軸の時代」はそれが求められると。

 これからの時代は、この客観的と思い込んでいる視点に、もう一度これは自分独自の視点なんじゃない!と念押しをしていくこと(一種のメタ認知)が必要になると思います。自分自身の視点、すなわち主観的な視点を重視して生きて行くことが大切だと思うのですが、長くなりそうなので次回に続けようと思います。

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『風の時代を行く』まだ必要? 経済成長

~実在とバーチャルリアリティのはざまで~

まだ必要? 経済成長

 最近はテレビを一切見ない人も増えていますが、私は結構ニュース番組を見るし、ユーチューブでも話題を追ってしまう方です。最近大きなニュースが多いですね。そして、「オールドメディアの報道vsSNS発信情報」みたいな構図がよく取り上げられます。

 ずっと長い間大手メディアの偏向報道に問題意識を持っていたので、ここにSNSが切り込む姿勢は好感が持てますが、そこに氾濫する情報はその根拠、ファクトチャックなどが疑われるものも多く、受け取る側の判断が問われる気がします。個人個人の視点が尊重されますので、正しさの決めつけは避けるべきなのかと思います。

 

 最近思うことは、パラダイムとも言えるこれまでの私達の考え方の根底にあるものなのですが、「風の時代」の新しいパラダイムを見つける? 作って行く? 必要があるでしょう。

 よく感じるのは、政治家にしても、財界の重鎮にしても、評論家にしても、コメンテーターにしても、SNSのインフルエンサーにしても、多くの場合その考え方の根柢に経済発展というベクトルがあるということです。SNS発信にもお金儲けが目的なの?というものが余りに多い。そしてほとんどの国家がその経済成長を第一の目標に掲げています。この考え方は、現代の私達の根柢にあると言ってよく、ひとつの大きなパラダイムのように感じます。

 一方で地球環境や私達の生存に関わる危機感からサステナビリティ(持続可能性)が問われ、SDGs(持続可能な開発目標)が常用語になっています。ところがその17の目標の8番目には、「経済成長も」が掲げられています。飽くまでも個人意見ですが、私はミヒャエル・エンデが語ったようにエコロジーとエコノミーは両立しないものだと思っています。憶測ですが「風の町」の住民の皆さんにはそういう方が多いのではないでしょうか。

 改めて日本と言う国を見ると、世界経済が大きく成長する中で30年間取り残されてしまったことが問題視されています。人口減少、貿易収支、企業の設備投資、賃上げと物価高の関係、色々課題はあるのでしょうが、本質的な課題として個人消費が伸びない点が指摘されることが多いです。長年の不況からわずかな所得の余剰分を貯蓄に回すコンサバな姿勢?

 私は別の見方もあるのかなと最近思い始めました。数字の根拠は何もないのですが、お金に換算される個人消費は減っていても、お金に換算されない個人諸費を加えたら、別に減って無いんじゃないのという仮説です。

 

 どうでしょう。「風の町」もコミュニティですが、今増えているコミュニティにはエコビレッジのような活動も多く、なおきさんがトーク会などを良く企画される岡本よりたかさんの言う『生き抜くための「買う」から「作る」へ』のような考え方に共感される人達が増えているのではないでしょうか。特に若い人に。実際に生活に必要なある部分に、お金を使わなくて済む仕組みを作り始めている人が周りに増えているような気がします。

 脱成長(Degrowth)を掲げるムーブメントもあり、日本の学術界では斎藤幸平さん辺りがその旗手でしょうか。斎藤幸平さんはまだ37歳ですね。「風の時代」という新しい時代への転換点に、若いジェネレーションのこうした動きを感じるのは、時代の大きなパラダイムが経済的な脱成長に向かう予兆なのかなと思う次第です。そして、何となくこの流れは世界の中でも日本で先行して進んで行くような気がしてなりません。ただの直感ですが・・

 世の中で問題に成ることにその理由を詰めて行くと、「金儲け」に行き着くことがやたらと多い。みなさんはそんな風に感じませんか?「金儲け」自体は否定しませんが、これを目指して活動する時に「人よりも」という思いが知らず知らずに染み付いている気がします。この思いが集積されると経済成長になる? いや寧ろ逆で、経済成長というパラダイムが根柢にあるから「人よりも」お金持ちになりたい? これも相補的な関係ですかね。

「風の時代」は自分軸の時代! もっと軽―い流れに乗って生きる時代です。そのために「脱経済成長パラダイム」、そんなことを考えてみたいものです。

 これは大きなパラダイムが変わる時代のシフトなので、その転換期のインターバルは当然長くなるでしょう。実はこれを書いている私は今年古希を迎える老いぼれですが、日本の若い人達の動きが少しずつこうした流れを生み出して行くような気がします。

 最後に、特に政治家の皆さんに言いたい。お金の流れだけで消費を捉えていると、世の中の流れを見失うよ!と。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(8回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? 

【パラダイムシフト】(その2)

 本論のひとつのテーマをサステナビリティとしていますが、以前LOHASという言葉が話題になりました。LOHASはLifestyles of Health and Sustainabilityの頭文字ですが、オーガニックな食べ物、心と体のバランスを整える活動(ヨガ、瞑想)、代替医療を含む人間としての全体性を考えた医療、クリーンなエネルギーや資源の循環、そんなことを意識したライフスタイルを心掛けることでしょうか。いいコンセプトだと思ったのですが、言葉の使われ方が曖昧だったことや、直ぐに金儲けに結び付ける人達が雑多に参入したことなどもあって、言葉としてのLOHASは余り聞かれなくなりました。

 しかし、最近ライフスタイルとしては正にLOHASじゃないのと言う人達が急速に増えている気がします。殊にコロナ発生以降、都心を離れて地方に住み、こうしたライフスタイルを意識した生活を始められている方が多いのではないでしょうか。そう言う私も1年半ほど前から、生活のベースを東京から軽井沢の森の中に移したひとりです。 まだまだマジョリティではありませんが、こうした人達は、今この時代にどんなことを思ってライフスタイルを変え始めているのでしょうか。言葉にするのは難しいかも知れませんが、こうした変化からこの先の時代のパラダイムが考えられないものかと思います。

 こうした方向性を持つ人達の底流には、私達を取り巻く現象が単独の物質化学反応の集まりというだけでは説明できないものであり、もっと複合的な・生態系的なもの、肌で感じられるもの、目に見えないものを大切にしないといけない、そうした感覚が流れているように思えます。

 それをパラダイムとして捉えようとした時に、20世紀になった頃から探究が始まった量子力学、素粒子物理学の世界が思い浮かびます。世界を構成する最小単位と思っていた原子を物理学者が更に細かく内側を見に行ったら、原子は量子・素粒子というもので構成されていることがわかりました。このミクロな構成物を物理量として見ると量子になり、粒として捉えると素粒子という言葉が使われます。両者は同じものを捉えていると思うのですが、ここでは量子の英語であるクォンタムを使わせていただきます。そして、このクォンタムの性質、挙動がそれまでの原子や分子、それらから作られている物質とは、全くことなる不可思議なものだったのです。

 見ていない時は波として飛び回っているのに、観察しようと見に行くと突然粒になる。運動状態を捉えようとすると何処にあるのか分からなくなり、何処にあるのか見つけると運動状態が決められなくなる。素人が一般人に伝えようとすると、こんな感じになるでしょうか。私達が当然と思って捉えているモノに対する概念が通用しない掴みどころのないモノで、実は私達は出来ているのだと言うことになります。

 そして最近色々なところで引用される「量子もつれ」という性質があります。特殊な結晶を通過させるとひとつのクォンタムが2つに分かれるのですが、この2つのペアとしての性質が私達の常識的な理解を超えた挙動をすることが、実験によって明らかになっています。普段クォンタムは色々な動きを合わせ持って特定できない運動をしていますが、観察者が見るとその時に運動が決まる性質を持っています。回転運動を例にすれば、普段は上向き回転と下向き回転を合わせ持って特定できないものが、見に行くと突然回転の方向が決まった姿を現すという性質です。そして2つに分かれたペアのクォンタムが持つ「量子もつれ」とは、ペアの片方を観測してその回転方向が決まると、もう一方のクォンタムが同時に逆向きに回転する姿を現すと言うものです。それだけなく、このペアのクォンタム間に起こる現象は、ペアの距離をいくら離して行っても同時起きることが実験的に確認されています。地上と人工衛星の間でも実験は行われました。この現象は同時反応で、物理学的にこれ以上早い速度はないと言われる光速に縛られないことになります。

 日々新しい研究が進んでいる分野ですが、私はこうしたクォンタムの性質をこれからの時代のパラダイムに結び付けていきたいと思っています。「量子もつれ」を拡大解釈すれば、「みんな繋がっている。宇宙中と同時に連携して動く仕組を私達自身が無限に内包している。」ということになります。LOHASな人達は、知らず知らずにそれを感じ取って生きているのではないでしょうか。

 今回も難しい話になってしまいましたが、これくらいにして次回に続けたいと思います。

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『パワーアップしている!?』

最近自分のヒーリングがパワーアップしているように感じています。ストレートに思いが乗るというか・・

最近はヒーリングを次のように進めています。

クライアントさんへの問診

  ↓

問診を踏まえた全体のスキャンニングと不調部分へのヒーリング方法の確認

  ↓

クライアントさんへのスキャンニング結果とヒーリング方法の説明

  ↓

ヒーリング実施

  ↓

クライアントさんへのヒーリング後の説明

この中で特にスキャンニングのレベルがかなり上がっていて、ここではハイヤーセルフに繋がってひとつひとつセルフキネジオロジーで確認していきます。原因の深堀もします。Yes/Noの回答が必ず出るので、それを信じることが鍵です。

ヒーリング方法は後頭骨か仙骨へのQE(クォンタム・エントレインメント)を行う場合が多いですが、途中から使っている両腕・両手をハートチャクラからのイメージの両腕・両手に切り替えて、自分の両腕は大きく広げて、ハイヤーセルフ・ヒーリングマスター・大天使・潜在意識・深層意識とイメージでループ(輪)を組みます。

悪いエネルギーは洗い流されて、上から黄金の光のエネルギー、根源の愛のエネルギーが降り注ぐイメージです。

終了するタイミングもセルフキネジオロジーで確認し、必要な場合は繰り返し行います。

スキャンニングの説明にも、ヒーリングにも高評価をいただいています。

ポイントは自分を支えてくれている10の200乗倍の世界への絶対信頼、そうする自分への自己信頼です。

軽井沢から遠隔で、癒しのエネルギー、愛、感謝、豊かさを循環させていきます。

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『自由人になりたい?』

小学校低学年の頃、画家だった叔父に「大人になったら何に成りたい?」と聞かれたことがあります。自分が何て答えたかは記憶にないのですが、叔父は自由人に成りたかったんだと話してくれました。古代ギリシャには自由人という人達がいて、やりたい時にやりたいことをやって暮らしていたということでした。食べたい時に食べ、寝たい時に寝、散歩したい時に散歩する・・ それがどのくらい成りたい理想なのか、その時はよく分かりませんでした。

今軽井沢で一人で生活するようになって、そんな自由人のような暮らし方を求めているのかも知れません。一人で過ごす時間の中で、実際誰も自分に制限を加える環境ではなく、何をするのも自由です。それなのに、ふと気が付くと人のことを気にして行動しようとしているんですね。持って生まれた性格と生まれてからここまで生きてきた中で染みついた癖でしょうか。ちょっと悲しいものがあります。

どうしたものかねぇ~と思っていたら、朝の瞑想の時にメッセージが降りました。

『 色々なこと、周囲の人のことを気にする。

気にするということを、もっと深く見てみよう。

自分の中に気にする対象があることを知っているだろう。

気にする対象に勝手にしているだけ。

全部自分の中で起こっている。

ではどうするか?

一度目をつぶる。

気になる対象とのラインを自分の中でシャットする。

自分の中で自分の中にある気になる対象をシャットする。

シャットして残った自分を深く見つめる。

そうすると・・

自分の中にある対象ではなく、本当の客体の対象との関係が見えないか。

自分だけを深く見つめていると、本当の客体の対象の思いが伝わってこないか。

これはかなり微妙な感覚かも知れない。

これは全てが繋がった関係性の中で、主体と客体が統合する感覚だ。

自分という広がりの中にある、自分の中の対象との繋がりとは一線を画するものだ。

そこが分かれば、対象・客体との本当の繋がりを、気にすることはなくなるだろう。

だからその対象・客体との本当の繋がりが分かったら、その繋がりに感謝する。

本当の感謝!

それが分かるだろう。 』

-ハイヤーセルフより-

これは相当難しい感覚です。

このメッセージが浮かんできている間はそんな気になっていましたが、後になるとその感覚が蘇りません。

取り敢えず、人のことや出来事が気になっている自分に気づいたら、それをシャットする意識になることは、繰り返し繰り返しやってみようと思います。