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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(36回目)

3.22世紀型社会への道

3) 今やるべきこと

【私のふりかえり】(その2)

 子供の頃、そして学生時代の自分の内面を少しふりかえってみたいと思います。

 前回書きましたように小学校に上がる前までの私は、独特な内面世界を持っていて、ひとりその世界に籠るところがあったと記憶しています。それが、小学校に上がってから高校くらいまでの間は、内面世界という意味で特筆する記憶があまり出て来ません。他の子供達、友人達と比べて特に大きな違いのない普通の子供時代を過ごした記憶です。ただ小学校時代の授業中、突然 「どうして自分はここにいて、こんな教室の中でこんな先生のこんな授業を受けているんだろう。大きな宇宙の中で不思議だ。」みたいな思い駆られることがありました。そして、小学校の時に「世界の7不思議」みたいな話に関心を持ったり、中学の時に般若心経を300万回唱えると超能力が得られるという話に惹かれたり、高校の時にユリ・ゲラーブームを面白がったり、ふりかえれば超能力や超常現象に関心が強かったのかも知れません。

 高校2年の時の倫理社会の授業では、古代思想の中の老荘思想に惹かれました。そして、エコロジー・生態系的な考え方に共感しながら、チャラチャラした学生生活、学生の分際でゴルフなんかして粋がっていた自分に自己矛盾を感じていました。そんな自分の大きな転機になる体験が起きたのが、大学1年の冬でした。

 一般教養の生物の授業で選択したのが「自然とは何か?」をテーマにした講座だったのですが、その講義の中で、エンゲルスが「自然の弁証法」の中で説いている「自然とはあらゆる物質の運動形態である」という定義に遭遇しました。この言葉が妙に自分に深く突き刺さり、自然とは何かについて3ヶ月ほど堂々巡りの思考を廻らすことになりました。人間が作り出す人工物や文化・文明に対比する形で自然というものを何となく受け止めていた私でしたが、気が付けば「自然とはあらゆる物質の運動形態である」という自然について頭か支配されている状態が続きました。

 そんなある晩、自分の部屋で考えを巡らせていた時に突然その状態が起こりました。宇宙の隅々までが澄み切って見渡せるような感覚になったのです。その時に思い浮かべていたことは、頭でっかちになるという定向進化を続ける人類は、何れ滅びるのが必然だということでした。そうだ、人類が滅びるは必然なんだと思った瞬間、宇宙の全てが受け入れられたのだと思います。それまでは、漠然と人類は滅んではいけない、それを回避しようとすることは当然としていたものが、滅びるなら滅びればいいじゃないか、それこそが自然じゃないかと思ったのでした。そして宇宙の中に生まれた私達は、正に自然の流れの中にあり、そこから外れようがない、私達も自然そのものなんだと思いました。だから私達もあらゆる物質の運動形態なのだと。それまで人工物だと思っていた鉛筆もノートも家も車も大都市も、みんな自然という範疇から外れたものではないと思い、抱えていた自己矛盾が氷解しました。この体験から一週間くらい、気分が晴れやかで、冬だというのに体がホカホカしていたことを記憶しています。

 その一年後、手塚治虫の「火の鳥(鳳凰編)」を読んでいて、主人公の我王が悟りを開くシーンで同様の感覚が蘇りました。そして更にその一年後くらいから、オカルト思想の本や密教の本を読み始めていました。大学3年の時には、ゴルフ部のキャプテンとして国公立大学が集まる大会で優勝した夏に、出羽三山に山伏の修行に行って滝に打たれたりしていました。2,3年前なら自己矛盾を感じていたことでしょう。

 そして大学卒業後普通に就職して社会人になることに、多少の抵抗感があったと記憶しています。それでも時代背景もあり、当然のように就活をして就職した会社が花王株式会社(就職した時は花王石鹸株式会社)で、37年間定年まで勤めることになりました。

 社会人時代のふりかえりを、また次回続けたいと思います。

※『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』は、週1回くらいのペースで書き足しています。バラバラした投稿になっていますが、初めから順番に読みたい方は、note のサイトを見ていただくと、頭から読める投稿にしてあります。

https://note.com/qeharmony_627/n/n1c014e6dbe0c

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