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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(8回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? 

【パラダイムシフト】(その2)

 本論のひとつのテーマをサステナビリティとしていますが、以前LOHASという言葉が話題になりました。LOHASはLifestyles of Health and Sustainabilityの頭文字ですが、オーガニックな食べ物、心と体のバランスを整える活動(ヨガ、瞑想)、代替医療を含む人間としての全体性を考えた医療、クリーンなエネルギーや資源の循環、そんなことを意識したライフスタイルを心掛けることでしょうか。いいコンセプトだと思ったのですが、言葉の使われ方が曖昧だったことや、直ぐに金儲けに結び付ける人達が雑多に参入したことなどもあって、言葉としてのLOHASは余り聞かれなくなりました。

 しかし、最近ライフスタイルとしては正にLOHASじゃないのと言う人達が急速に増えている気がします。殊にコロナ発生以降、都心を離れて地方に住み、こうしたライフスタイルを意識した生活を始められている方が多いのではないでしょうか。そう言う私も1年半ほど前から、生活のベースを東京から軽井沢の森の中に移したひとりです。 まだまだマジョリティではありませんが、こうした人達は、今この時代にどんなことを思ってライフスタイルを変え始めているのでしょうか。言葉にするのは難しいかも知れませんが、こうした変化からこの先の時代のパラダイムが考えられないものかと思います。

 こうした方向性を持つ人達の底流には、私達を取り巻く現象が単独の物質化学反応の集まりというだけでは説明できないものであり、もっと複合的な・生態系的なもの、肌で感じられるもの、目に見えないものを大切にしないといけない、そうした感覚が流れているように思えます。

 それをパラダイムとして捉えようとした時に、20世紀になった頃から探究が始まった量子力学、素粒子物理学の世界が思い浮かびます。世界を構成する最小単位と思っていた原子を物理学者が更に細かく内側を見に行ったら、原子は量子・素粒子というもので構成されていることがわかりました。このミクロな構成物を物理量として見ると量子になり、粒として捉えると素粒子という言葉が使われます。両者は同じものを捉えていると思うのですが、ここでは量子の英語であるクォンタムを使わせていただきます。そして、このクォンタムの性質、挙動がそれまでの原子や分子、それらから作られている物質とは、全くことなる不可思議なものだったのです。

 見ていない時は波として飛び回っているのに、観察しようと見に行くと突然粒になる。運動状態を捉えようとすると何処にあるのか分からなくなり、何処にあるのか見つけると運動状態が決められなくなる。素人が一般人に伝えようとすると、こんな感じになるでしょうか。私達が当然と思って捉えているモノに対する概念が通用しない掴みどころのないモノで、実は私達は出来ているのだと言うことになります。

 そして最近色々なところで引用される「量子もつれ」という性質があります。特殊な結晶を通過させるとひとつのクォンタムが2つに分かれるのですが、この2つのペアとしての性質が私達の常識的な理解を超えた挙動をすることが、実験によって明らかになっています。普段クォンタムは色々な動きを合わせ持って特定できない運動をしていますが、観察者が見るとその時に運動が決まる性質を持っています。回転運動を例にすれば、普段は上向き回転と下向き回転を合わせ持って特定できないものが、見に行くと突然回転の方向が決まった姿を現すという性質です。そして2つに分かれたペアのクォンタムが持つ「量子もつれ」とは、ペアの片方を観測してその回転方向が決まると、もう一方のクォンタムが同時に逆向きに回転する姿を現すと言うものです。それだけなく、このペアのクォンタム間に起こる現象は、ペアの距離をいくら離して行っても同時起きることが実験的に確認されています。地上と人工衛星の間でも実験は行われました。この現象は同時反応で、物理学的にこれ以上早い速度はないと言われる光速に縛られないことになります。

 日々新しい研究が進んでいる分野ですが、私はこうしたクォンタムの性質をこれからの時代のパラダイムに結び付けていきたいと思っています。「量子もつれ」を拡大解釈すれば、「みんな繋がっている。宇宙中と同時に連携して動く仕組を私達自身が無限に内包している。」ということになります。LOHASな人達は、知らず知らずにそれを感じ取って生きているのではないでしょうか。

 今回も難しい話になってしまいましたが、これくらいにして次回に続けたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(7回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? 

【パラダイムシフト】(その1)

 22世紀に向った時代・世の中の転換には、パラダイムのシフトが重要な要素になると思います。パラダイムという言葉を最初に使ったのは、科学史家のトーマス・クーンで科学用語として「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」としています。20世紀中頃のことですが、その後「パラダイム」は広く拡大して使われるようになり、ものごとを捉える時のその「捉え方・考え方の枠組み」「その時代の規範となるような思想や価値観」を示す言葉として使われるようになっています。

 そして広い意味でいうパラダイムについて、世の中でそれが変わっていくことを「パラダイムシフト」と呼びます。この大きな意味でのパラダイムシフトが今起こっている最中だと思うのですが、300~400年前にも大きなパラダイムシフトがありました。その時のシフト期間はかなり長いものだったと思います。

 400年くらい前までの世の中というのは、人々が生きていく上でのその生き方、考え方、物事の見方のベースが、神様の教えとか、仏様の教えとか、王様が絶対的な権力を持っている王国であればその王様の御達しといった規範にありました。キリスト教の世界であれば聖書、イスラム教の国であればコーラン、仏教国であれば仏教経典になります。普段の生活、子供達への教育の中にそうした教えが息づいていました。それより前の時代のアニミズムやシャーマニズム、汎神論なども含めて、こうしたパラダイムをここでは「絶対者の規範」と呼ぶことにします。

 それが400年くらい前から起きたいくつかの事象によって、時間を掛けて変わって行くことになります。その代表的な事象は、コペルニクスの地動説、ガリレオ・ガリレイの黒点観測と宗教裁判、ニュートンの古典力学、デカルトの哲学、ダーウィンの進化論などです。神や仏の教えではなく、今日私達が言うところの「科学的に証明できるものが正しい」という考え方ですね。敢えて逆の言い方をすれば「証明できない神など存在しない」という見方に繋がります。こうした見方、考え方が私達の生活、生き方のベースになっているのが現代の世の中で、そのパラダイムを私は「物資サイエンス」と呼んでいますが、実証主義(パトリオティズム)の方がニュアンス的に当たっているかも知れません。

 ダーウィンの「種の起源」は160年くらい前の話ですから、世の中全体が変わって行くのに300年くらいの時間が掛かった訳ですが、現代の私達のほとんどが「物質科学的に証明できるものが正しい」という考えをベースに持って生きて、日々生活しているように思います。

 教育が完全にそうしたものになっていることが、私達の科学信仰とも言うべきパラダイムをより強固なものにしています。教育ですから教える内容が学問になる訳ですが、その系統を人文科学、社会科学、自然科学に分類する方法が浸透しています。人文科学の中には、文学や美術・音楽なども含まれる場合が多く、学問である以上科学という冠を被せる必要があるということなのでしょうか。挙句の果てに、音楽や美術でも答えの決まったペーパーテストをして点数を付けたりしています。こうしたことの根底に「物質サイエンス」パラダイムとしての唯物的な思想が流れているような気がしてなりません。

 学校教育のみならず、社会教育、家庭教育もそうなっている場合が多いですから、実生活の中で私達のものを見る、判断する基準が何でもこのパラダイムになっている、そんな世の中であることが、私達が物質的な満足感を得ることを目的化することを助長していないでしょうか。なんでもかんでも数値化してその数値を増やすことに喜びを感じる、その最たるものがお金で数値としてのお金を増やすことに生涯を費やす・・ 資本主義の発展などという言葉で多くの人達はそんな風に方向付けられている・・ その根底に「物質サイエンス」パラダイムがあるのだと思います。

 そうした時代が行き詰って来ているのか、時代転換の兆しを感じている方が増えているというのは本論の「はじめに」で述べた通りです。それはパラダイムがシフトしているということでもあると思うのですが、ではこれからの時代のパラダイムをどのように捉えたらいいのか? 次回からそんな話に入って行きたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(6回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? 

【意識の変容】(その4)

 現代社会は優越意識に支配されていると思うのですが、この意識は優劣、良し悪し、善悪、高低、正誤などの基準軸を持って何でも比較し、基本的に自分を上位に位置づけようとする意識です。正誤で言えば自分が正しく、正義と悪で言えば自分が正義であるということを前提にする意識になります。最近「風の時代」という言葉が良く使われますが、これまでの時代を「地の時代」とすれば、その時代を象徴する意識といえるでしょう。昭和的と言ってもいいかも知れません。

 私は昭和の時代に育った人間ですが、ひとつ年上に昨年凶弾に倒れた元総理大臣の阿部晋三さんがいます。私が図7の資料を作ったのは2021年の秋で、この資料を使って「時代の転換と意識の変容」という動画をYouTubeに公開したのは昨年4月でした。この時安倍さんはまだ生きていらっしゃったのですが、「地の時代」「優越意識」の象徴として描いてしまいました。国会で118回嘘をついても、嘘をついている自分こそ正しいと疑わないような意識です。

 これ以上安倍さんの批判は控えますが、現代人の70%くらいはこの優越意識を主に使って生きているように思います。残りの30%のほとんどがその前の段階である集団帰属意識中心に生きていて、これからの時代の意識となるべき自立意識で生きている人は、まだまだ僅かのようです。資料ではその象徴をオードリー・タンさんにしました。35歳の若さで台湾のデジタル担当大臣に抜擢されたオードリー・タンさんは、ご自身がトランスジェンダーです。「自由への手紙」という本のカバーにある「誰かが決めた正しさにはもう合わせなくていい」という言葉は、自立意識の象徴と言ってよく、 正しいとか正しくないとかいう基準そのものが無意味であり、みんなそのままでいいということですね。そのままの自分はみんなそれぞれ違う訳ですが、その違いを認めて違うままでいいという意識です。

 優越意識がマジョリティの時代が現代まで続いてきているが故に、今も地球上では「正しい」と「正しい」のぶつかり合いが絶えません。優越意識同士の戦いの土俵が、地球上の人間社会を覆っていると言っていいでしょう。

 戦争に於いても、お互いに自分達が正しい、自分達が正義と主張して戦う訳ですが、これを自立意識で見れば、それぞれが違う主張をしているだけということになります。注意したいのは、世の中を評論する評論家、批評家、専門家と呼ばれるような人達も、そのほとんどが優越意識を持って自分が正しいという前提で批評していることです。

 自立意識の人は、「私は私、あなたはあなた。そこにあるのは違いです。」という視点でものを見るので、「正しい」という主張のぶつかり合いは起きません。自立意識の人達の集まりの中では、争い事は起きないんです。自立意識を使っている状態と優越意識を使っている状態では、脳の使い方が違っているように思えます。これはまた章を改めて考えたいテーマになりますが、優越意識の人が自立意識を持つために初めにすることは、物事を俯瞰してみる努力をすることだと思います。俯瞰して見える見え方も当然人それぞれ、様々ですが、先ず俯瞰して見る努力をする、ここから始めることが大切だと思います。

 図9のように、優越意識同士のぶつかり合いの土俵である世界を俯瞰して見るとどのように見えるのか。メディアなどに流れる情報だけを鵜呑みにしないで、「優越意識→自立意識」という今時代に求められる変容を進めるために、先ずそこから始められないでしょうか。

 【意識の変容】の話が長くなりましたが、次回からは22世紀型社会に向って必要になる変化として、【パラダイムシフト】について見て行きたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(5回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? 

【意識の変容】(その3)

 今の世の中に求められる意識変容について、今回は顕在意識、潜在意識、深層意識という一般的に捉えられている意識階層とは、少し違った角度から意識階層を見て行きたいと思います。

 アブラハム・マズローは人間性心理学の祖とされますが、「欲求階層説」が大変有名です。私は文系理理系で言えば理系の人間なのですが、会社員時代に入社5年目くらいからマーケティングを担当するようになりました。少しは勉強しようと読んだマーケティングに本によくこのマズローの欲求階層説が引用されていました。当時から既に趣味的(?)に精神世界とか神秘思想といった類の本もたくさん読んでいましたが、こうした本の中にもマズローの欲求階層説を引用しているものがありました。図5に欲求階層説を示します。

 生理的欲求、安全・安定の欲求、社会的(帰属の)欲求、自尊の欲求(承認欲求)、自己実現の欲求がピラミッドのように階層をなしていて、上に行くほど上位の欲求になるという説になります。人間がこの階層に分かれているというより、皆が持っているこれらの欲求のどこを主にフォーカスしているかで生き方が分かれると言った感じでしょうか。同様の欲求を選択理論として体系化した心理学者のウィリアム・グラッサーは、階層性を否定しています。

 私はこの欲求階層説に接した時に、これはそのまま意識の階層になるのではないかと思いました。それを言葉にしたのが図の左側になります。生存意識、種族維持意識、集団帰属意識、優越意識、自立意識の5階層になります。生存意識と集団帰属意識は、自らが生きるために努力する、自分の種族を維持するために努力する、という全ての生物の本質とも言うべき本能になります。その本能も深層領域の意識と捉えていいと思っています。3番目の集団帰属意識は群を形成する動物特有のものと思っていましたが、最近の研究では植物にもこうした連携があることが分かって来ています。集団に与する活動を支えている意識ですね。

 4番目の優越意識と5番目の自立意識が本論で扱う意識変容の本丸になります。人間の様な高等動物では、その社会の中で優位なポジションを築くという意識が上位意識として出てきます。それが優越意識で、色々な関係性を比較した上で優劣などの序列の軸を持つことが前提になります。その軸は、優劣であったり、高低であったり、良し悪しであったり、善悪であったりするのですが、とにかく比べっこをして序列を作り、自分がその中で上昇して行くという志向性を持つ意識になります。

 優越意識が比べっことして高い低いという位置づけをしたり、善悪、正義と悪などの二極で世の中、物事を捉えたりするのに対して、5番目の自立意識では比べることによって認識される違いに優劣や高低や良し悪しを付けることなく、違いを違いとしてそのまま認める意識になります。二極に分かれているものを二極としてそのまま受け止めます。

 優越意識も自立意識も誰もが持っているものだと思いますが、この二つの意識には脳などの使い方も含めて大きな違いがあり、どちらにフォーカスを当てて生きているのかで、人々の人間性に階層を生んでしまうような違いを感じます。そして現代社会は、優越意識→自立意識の変容が求められる時代に入っていると思うのですが、次回は優越意識に支配されていると思われる今の時代を、もう少し掘り下げて見てみたいと思います。