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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(4回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? (その3)

 意識の前提になる認識について述べてきましたが、意識の階層とこの認識との関係を関連する項目も含めて少し見ていきたいと思います。図4は、意識の階層と認識など関連する項目を整理した表になります。分類する意味で境界線を線引きして表にしていますが、明確に分けられるものではないことをお断りしておきます。

 ここでは意識の階層を、顕在意識、潜在意識、深層意識・集合無意識・超意識、普遍意識・純粋意識の4つの階層に分けています。それぞれの意識を細かく定義するのは難しいですが、最後の普遍意識・純粋意識は、人間としての個を超えたトランスパーソナルな領域の意識として位置付けています。集合無意識や超意識についても個を超えている面を持っていると思います。

 先ず、分かり易くするために目に見える部位から割り切って見れば、大脳新皮質が顕在意識の主な活動野になります。ここでは、脳の神経細胞間を神経伝達物質によって電荷などが伝えられることで、情報が伝わって行きます。そうした反応が複雑に形成されることで、認識が形成されるのだと思います。私達は限られた範囲の波長の光子(フォトン)の波動(電磁波)を視覚で捉えますが、顕在意識は基本的に物質(分子・原子)反応の世界の意識になります。この意識の活動として、知性、理性、思考、判断などが上げられます。私達がコントロールしながら行っている活動という面が強いです。

 チンパンジーやゴリラなどの高等な類人猿、イルカやクジラなどの高等な海洋哺乳類は、自覚する顕在意識をあるレベル持っているように思いますが証明はできません。私達人類の顕在意識が発達したことは、大脳新皮質にある言語野の発達と関係が深いように思えます。私達の言語コミュニケーション能力が著しく発達したことが、同時に自覚するという行為を言語表現できることになったことに深く関係しているのだと思います。

 顕在意識の大脳新皮質に対して、潜在意識の主な活動野は少し古い哺乳類の脳と言われる大脳辺縁系で、勿論単純に区分けできるのもではないでしょうから、大脳新皮質や脳幹も関わっているでしょう。認識やコミュニケーション媒体としては、顕在意識と同様に分子・原子も勿論あるでしょうが、ここでは後章で詳しく述べる「量子のもつれ(クォンタム・エンタングルメント)」のような現象が、潜在意識の活動のベースにあるように思えてなりません。現代科学では、まだまだ証明しようのないことです。よって、認識にしてもコミュニケーションにしても潜在意識の活動を支える媒体は量子・素粒子(クォンタム)が含まれます。正当な脳科学の立場からは異論があるかも知れませんが、まだ物理学の世界でも新しい事実がどんどん見つかってくる段階の量子もつれのような現象について、この領域で持つ役割が少しずつでも分かってくるのはまだまだこれからでしょう。よってここで述べている内容は直観によるものです。潜在意識は感情や感性、そしてこの直観にも結び付いていると思います。潜在意識には生まれてからの全ての記憶も残っているように思えます。

 更に深層意識の領域になると、より古い爬虫類の脳と言われる脳幹や身体全体が活動野になると思うのですが、私達が普段意識することなく動いている全ての身体活動、不随意機能などを支えているものと思われます。そして、この深層領域は、自分の外にある色々なものや生物たちとも量子のもつれ現象で連携して活動していることが、今後少しずつ分かってくるような気がしています。私達人間は、日常生活が極端に顕在意識の活動に偏っているのですが、他の生物達は当たり前のこととして潜在・深層領域の繋がりを使って生きているのではないでしょうか。

 現代社会に於いて私達は、その社会的活動のほとんどを顕在意識、大脳新皮質に頼った形で日々生活しているように思えます。そこには社会の体制に加え、乳幼児期から始まる教育全般も影響しているように思えます。そうしたことが、現代社会をひとつの時代の末期症状に導いているように思えてなりません。もっと潜在領域、深層領域まで脳全体を統合したような生き方が求められる時代に変わって行く必要があるでしょう。

  トランスパーソナルな普遍意識・純粋意識については、また章を替えて取り上げられればと思います。今回もまたややこしくなってしまいましたがこの辺にして、次回は別の見方で意識階層を捉えてみたいと思います。

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『22世紀型社会に向かって- 日本がそのモデルになって行く-』(3回目)

1)22世紀ってどんな世の中? (その2)

【パラダイムシフト】 物資サイエンス(科学信仰)→クォンタムサイエンス

【意識の変容】 優越意識→自立意識

【価値観の前提となる視点の変化】 客観性重視→主観性重視

というこれから進んで行くと思われる変化について、先ず「意識の変容」から見て行きたいと思います。

【意識の変容】

 意識について改めて考えると、なかなか捉えどころのないものです。言葉にすると「私達が直接的に心の現象として経験していることを自分で認識している状態」と言った感じでしょうか。どうしても認識するという行為があって、それを確認する、自覚するところから意識が生まれているように思えます。ここで確認するとか自覚するとか言う行為が必要ですが、それは自分で分かっているということであり、それが顕在化していることになります。ご存じのように意識には顕在意識があり、その下に自覚できない潜在意識があり、更にその下には深層意識、集合無意識と呼ばれるものがあると言われ、この辺りのところを整理する必要があります。「認識を自覚しているのが意識」だとすると、これは潜在意識、更にそれより下の意識には当てはまらない定義になります。

 顕在意識は意識全体の5%とか10%程度とよく言われます。私はもっと少ないのではないかと思うのですが、意識の相当な部分は潜在下にあるということです。自覚がない領域になるので、自覚がなくても認識はあるのかというと言葉の定義にもなり難しいですが、潜在意識と雖も何某かの認識がないと成立しないと思うんですね。顕在か潜在かは、自覚のあるなしがこの辺を分けるような気がします。そして、話をどんどん難しくしてしまうことになるのですが、意識の前に、認識というところから見て行きたいと思います。認識とは何んなんでしょうか。

 通常私たちは五感を使って色々なもの・ことを認識しています。光や音の波動をキャッチしたり、嗅覚などでは動く物質をキャッチして認識は形成されますが、光の波動にしてもその主体は光子、つまり量子・素粒子のひとつです。量子・素粒子は認識の対象ですが、私には量子・素粒子を構成している超ひも理論に言う超ひもは、認識対象に成り得ないように思えます。波動には干渉という性質があって、これは同調して増幅したり相殺し合ったりする性質ですが、この干渉によってできる干渉パターンは、毎瞬毎瞬そのパターンが次の瞬間へと引き継がれていきます。パターンという形が継続することで初めて認識される対象になると思うのですが、最ミクロの超ひもが干渉を起こす前の波動の段階では、認識しようがないと思います。量子・素粒子(クォンタム)は、超ひもの波動の干渉によって形成されるそれぞれ個性あるパターンが、継続して存在しているものなのでしょう。個性あるパターンが継続するから認識対象になる訳です。

 一方認識する側の認識主体は、認識ができるという構造を有することになり、ある程度複雑な構造の干渉パターンが出来て、初めて認識が可能な存在になると思えます。それがどれくらい複雑な構造で、どんな次元に存在しているものから認識主体になるのか皆目見当がつかないのですが、何れにしても認識には波動の干渉によって生まれる認識対象と認識主体が必須ということになります。

 存在が生命体まで進化すると、間違いなく認識主体としての能力を持つことになると思うのですが、下等な生命体でも認識と言う能力は持っているはずであり、これは私達が思うところの自覚と言う行為がなくても認識は成立していると言いたい理由になります。ちょっと強引に結びつければ、下等な生命体でも深層意識、潜在意識に相当するものは持っている可能性があります。こうしたことをインスピレーションでまとめたのが図3になります。まだ出来立てで今後修正が入ると思いますが、この図の説明はどこか後の方の章で詳しく行うことにします。

 ということで、ややこしい話になってしまった今回はここまでにします。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(2回目)

1.今世の中で起きていること、進む方向

1)22世紀ってどんな世の中? (その1)

成田悠輔さんの「22世紀の民主主義」を読みました。大変刺激的な本でした。確かに化石のように古くなっている選挙制度にのみ参政権が認められているような現在の民主主義は末期症状を呈しているいと言ってもよく、それが同じく危機に瀕している資本主義を巧妙に操っている人達によって利用されているようにも思えます。それに対して、アルゴリズムの手法で潜在的な民意を探り、それによって細部に渡る政策課題の抽出、その時点で望まれるように政策意思決定をして行くという構想は、今の世の中の進展スピードを考えると、夢物語とは思えない実感がありました。

ただ、22世紀の世の中の在りようを予測する論述という見方をした時に、同様に22世紀のタイムラインを描いてみようとする私とは、捉え方のベースが随分異なるものだとも感じました。歴史的な流れの中で、基本的な社会構造が流れの中の変化に沿って進む範囲で、新たに生まれてくるテクノロジーを用いて改革を進めて行くけれど、人間そのものの変化という視点を積極的に捉えない社会科学的な範疇で、成田さんは22世紀を捉えているように思えます。私にはそう思えたという感想です。

それに対して私の描く22世紀では、先ず私達人類の意識が変化していることが前提として求められます。この意識の変化は変容であり、成長や進化という言葉を使ってもいい変化になります。敢えて言えば、22世紀を描く視点がどちらかと言うと人文科学・自然科学的なアプローチになると言えるでしょうか。そして、その人間の意識の変化変容は、何千年に一度起きるかどうかという変化で、それによって起こる社会変化は、ある種の不連続感を伴うもののように思えるのです。それが、既に一部の人達には起き始めている・・

この22世紀型社会の前提として必要になってくるのは、意識の変容に加えて、パラダイムのシフトと、価値観の前提になる視点・捉え方の変化です。パラダイムは物質サイエンス、物質科学信仰から量子論をベースにするクォンタムサイエンスに、意識は優越意識から自立意識に、価値観の前提になる視点・捉え方は客観性重視から主観性重視に変化して行く、そんな大きな時代の転換が22世紀に向って進んで行くと思うのです。それぞれの変化変容は相補的であり、こうした変化が起こることが、私達地球人類が次の時代に進んで行く前提として求められると言ってもいいでしょう。

次回から、ひとつひとつその中身を見て行こうと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』

「年明けから少し経ちましたが、昨年を振り返るとYouTubeを始め動画を10数本アップした年でした。視聴は全く上がりませんが、自分の思いをかなり述べられ、動画に合わせたPPTの資料もかなり出来て、改めて自分がこれからの時代に思うところが良く整理できたと思います。

今年は、チャネリングやカードからのメッセージを踏まえて文字化を進めようと思います。動画でも使った『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』という大きなテーマで、折々文章を書いて行こうと思います。先ずは「はじめに」ですが、今思っている全体の概要になります。書いている内に色々変化して行くと思いますが、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。」

はじめに

 今時代が転換期にあると感じている方は多いと思います。かなりの比率になるのではないでしょうか。その感じ方は様々で、人の数だけあるのだと思いますが、時代の転換にも色々な側面、周期があり、それをどのように捉えるかで、様々な見方が出てくるのでしょう。

 私の場合は、1980年代くらいから、この時代の転換を感じていました。と同時になかなか進まないなぁと思いながら、最近まで長い人生を歩んで来た気がします。そして、60代後半になった今、かなりこのスピードが上がって来たことを実感している昨今です。

 最近サステナビリティ(Sustainability)がテーマとして取り上げられることが増えていますが、日本語の訳としては持続可能性という言葉が出てきます。これは世の中全般を持続させて行くことのように思えます。このまま行くと世の中、特に地球上の人間社会が持続できなくなるのではないかという危機感が多くの人達に共有されており、こうしたテーマが取り上げられるのでしょう。そして、頻繁に耳にする言葉にSDGsがあります。Sustainable Development Goalsの略ですが、2015年9月に国連で採択された「持続可能な開発目標」で、「17の目標」と「169のターゲット」からなります。

開発目標となっているからなのでしょうか、17の目標の8番目には「経済成長も」というテーマが掲げられています。そしてよく示されるロゴポスターには、右肩上がりのグラフが描かれています。しかし私は、本当に宇宙レベルで恒久的なサステナビリティを考えた場合、経済成長というのは相容れないテーマなのではないかと思ってしまいます。50年とか100年とかタームを限れば、サステナビリティと経済成長を両立させることは可能かも知れません。しかしサステナビリティに問われるのは恒久性です。それと経済成長が両立するというビジョンが、私にはどうしても持てません。みなさんはいかがでしょうか。

宇宙は全体がバランスしています。どこかでプラスのエネルギーが大きくなれば、それに対応してどこかでマイナスのエネルギーが大きくなっている、これは宇宙のベースであり、そこから外れようのない法則です。陰陽がバランスしていると言い換えてもいいです。経済という活動が一方通行に拡大するというのであれば、それに見合った負のエネルギー活動がどこかでバランスすべく起きていることになり、こうした流れが永遠に続くことはありえないことでしょう。経済成長を語るなら、それに合わせて恒久性を内包したサステナビリティという言葉は使えないはずなのです。

本論は「22世紀型社会に向って」というテーマで、それが少しでもサステナブルな世の中の形に近づくことを目標に進めて行くつもりです。色々な意味で息詰まり感のある今だからこそ、色々な角度から論じて行ければと思います。

 さて、みなさんは今の日本という国をどう思っているでしょうか。それこそ1980年代には、Japan as Number Oneと言われ、当時海外事業に携わっていた私は、Yenの強さを実感したものです。第2次世界大戦後著しい経済発展を遂げた日本は、欧米先進国の仲間入りを果たし、特に物づくり・技術の面では世界をリードする国になった実感があります。それが今でも続いているという思いから抜けられていない人も多いのではないでしょうか。

 しかしバブルが崩壊し、インターネットが普及する時代になって以降、欧米各国に加え、それまでの開発途上国を含む世界各国が経済成長を果たす中で、日本経済は失速横ばい、世界に取り残された観があります。技術や学術面でも世界のトップクラスだったのに、色々な指標に見る日本の順位はどんどん下がっています。そうした実感を持てない日本人も多いかも知れませんが、日本の行く末に不安を感じている方も多いでしょう。

 本論は、そんな日本が22世紀に向って世界のモデルになって行くという大胆な仮説になります。そして、そのひとつのキーワードがサステナビリティです。恒久的なサステナビリティを目指すなら、経済成長という考え方は廃絶されるべきです。経済が成長しないまま社会が持続している今の日本に、サステナブルな社会に求められる仕組みが潜んでいるのかも知れません。今日本では低金利政策を継続していますが、本当にサステナブルな世の中を作るには、置いてあるものが勝手に増えて行くという、宇宙法則に相容れない金利という仕組みも無くすべきです。理由は?ですが、今日銀は正に低金利政策を継続しています。加えて、今日本は少子高齢化でも世界の先頭を走っていますが、この先いずれ日本の人口は縮小均衡状態になり、これはサステナビリティという視点に立つと、理想的な状態を生むように思えます。そこにソフトランディングすることが肝要です。

 明治、大正、昭和という時代の体制、やり方から抜け出せずに、旧態依然とした政策や行政活動を固守しようとする今の日本の政治家や行政関係者、金融関係者のやっていることが、22世紀に向って世界のモデルになるという皮肉な好結果を生む、そこに宇宙の大いなる采配を見る、そんな風に思ってしまうのはまだ私ひとりかも知れません。

 宇宙を味方に共感してくださる方を増やすべく、これから試論を進めようと思います。22世紀型などと言わずに、時代がいい方向に転換するスピードを少しでも上げられないかと思う次第です。