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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(31回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

10)教育のこれから(その2)

 今の世の中のグローバリズムについては、いくつかの項で述べて来ましたが、大小さまざまなヒエラルキー構造が重なり合った現代社会に於いて、一番上に立つ人達がメディアの情報や各種のエンターテイメントなどを操って、人々を管理し易い状態にしています。もっと大きく捉えてしまえば、民主主義も資本主義もそのための道具のように思えます。そして、教育は人々を管理し易い状態に留め置くための最も重要なツールのひとつと言えるでしょう。

 日本では明治以降教育がヨハン・フィヒテの教育学をベースに行われ、国家に忠誠を尽くすような人間に育てることが、教育の主眼になっていたように思います。これには江戸時代に広まっていた儒教的な言葉が、言葉として巧みに利用された気がします。敗戦後国家主義的な教育は見直されたとは言え、高度経済成長を支えたような優等生を育てるために、フィヒテの教育思想が基本的に受け継がれて来ています。

 例えば「いい子でいなさい」とか「人に迷惑をかけないように」とか「目上の人を敬いなさい」とか、これらは間違いとは言えませんが、自分の魂に従ってのびのび生きる上での制限因子になることが多々あります。こうした訓戒のような言葉が乳幼児の段階から知的教育として植え付けられてしまうと、それが潜在領域に落とし込まれて後々行動を起こす時の前提として発動してしまうようになります。自ら制約を作ってその中でしか生きられない人生になってしまう可能性が高まります。集団帰属意識階層の人間になり易いということです。

 一方、この乳幼児の時期から高レベルの学問教育が行われ、「優秀に! 優秀に!」と育てられると、知的能力が高く、上昇志向の強い人間になる可能性が高くなります。エリート教育と言っていいと思いますが、知識は豊富、それを操る能力に長けていて、入試など試験に強く、社会の中で重要なポジションに就くことになります。政治家、学術会の重鎮、大きな企業のトップ、評論家、最近では人が思いつかない一見スゴイと思えるコメントを繰り返すコメンテーター等に多く見られるタイプでしょうか。優越意識階層の典型になりますが、本来人間に求められる統合的なバランスを欠いている人が多いように思います。

 敗戦後の日本の教育は、国家主義教育への反省から一人ひとりの人間性を開花させる教育への転換を色々試みて来たようですが、結局エリート支配階層の人達が管理し易い人間を育てる教育から抜け出せていないようです。これはこれまでの時代が優越意識の支配する時代であったことの現れです。みんなが自立意識の時代に変わって行く今、教育も自立意識人間が育つものに変わって行く必要があります。教育学としてみれば、ジャン・ジャック・ルソーに始まりデューイ、シュタイナー、モンテッソーリ、ニイル等に受け継がれている教育は、生れ出た後の人間の発育成長プロセスに則っているものに思えます。日本でも斎藤公子さんや藤森平司さんの乳幼児教育がこれに当たるでしょうか。

 そして、私達には潜在領域の意識があります。得体の知れないものをたくさん抱えています。子供達への教育に於いてそうしたことに無自覚で、表面の意識の優等生を作ろうとすると、その子に後々大きな問題が生じるケースが多々あります。勿論人それぞれであり、誰もが同じようになることはなく、それぞれの違いには前世の影響もあります。これからの教育は本来こうしたことまで認めて行うべきものであり、そうしたことを体験的に身に着けている人が指導者になるべきです。

 潜在意識を通り抜けた深層領域には、10の200乗倍くらいの情報に満ち溢れた世界が広がっているものと思っています。そこにアクセスできれば、外から与える教育は社会生活を支障なく行う最低限のものでいい訳です。必要なものは全部自らの内側に潜んでいます。それを正しく引き出すことができる人間に育つように教育全般を見直すべきでしょう。先ず脳や身体の発達段階を踏まえた教育プログラムが必要です。そして、乳幼児の時期は多様な人達に囲まれた生活環境を作ることが大切です。例えば、母子家庭で母親とベビーシッター以外の人には接することがないような環境では、子供は健全に育ちません。一方で核家族化した社会を大家族社会に戻すことは実際のところ不可能でしょう。そうだとしたら、保育機関の在り方に工夫が必要です。

 もう一つ、増加している不登校の問題があります。これはこれからの時代を生きる魂達が、今の古い学校教育制度に馴染めないことの現れではないでしょうか。不登校児対策としてフリースクールが増えていますが、保育園、幼稚園、小学校、中学校くらいまでを全部フリースクールのようにしてしまうくらいの改革が必要? 何十年か先には、それが空想ではなくなっているような気がします。

 本来の人間性を開花させる教育については、天外伺朗さんが「教育の完全自由化宣言」と「「生きる力」の強い子を育てる」の2冊に膨大な論考を分かり易くまとめられているので、ご一読をお薦めします。

 第2章の「色々な分野で起こるであろう変化」はここで終わり、次回からは22世紀の姿を少し描けないかと思います。

※『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』は、週1回くらいのペースで書き足しています。バラバラした投稿になっていますが、初めから順番に読みたい方は、note のサイトを見ていただくと、頭から読める投稿にしてあります。

https://note.com/qeharmony_627/n/n1c014e6dbe0c

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(30回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

10)教育のこれから(その1)

 今回は「教育のこれから」というテーマで考えてみたいと思います。

 先ず、本論のタイトルが「22世紀型社会に向かって」となっている理由というか背景ですが、短い周期の時代転換やすごく長い周期の時代転換が今同時に起きている端境期にあって、その端境期が長いものもあるという事です。そういう長い周期の時代転換に於いてある程度新しい時代の形が整ってくるのが、なんだかんだ22世紀になってしまうかなと感じるものです。新しい時代に向かって少しずつ教育に変化・改革が進みながら、その上で3世代くらい入れ替わらないと新しい形が定着しないのではないかという直感になります。一気に変わるはずはありませんが、時代転換の流れと相補的に教育の在り方が変わって行くことがとても大切だと思います。逆に言うと、今の世の中に露呈されている多くの問題の根底に、今の教育の在り方の問題があると言えます。

 本論では【価値観の前提となる視点の変化】 として「客観性重視→主観性重視」を述べて来ましたが、これからの教育は、一言で言えば「主観は全て正解」という前提への方向転換になります。私達は、客観性=正解という暗黙のルールを作ってきました。皆が共通した軸を持ってものごとを判断することは、社会的な生活の上で欠かせません。でもそれは社会生活を円滑にする上でのひとつのルールに過ぎないということを、頭の中に叩き込んでおく必要性を感じます。あくまでも宇宙は全て主観の集まりという前提を持って置くことです。

 この3次元現象界、物質世界で生きる利便性としの客観性という軸を優越意識の一部支配者達が利用して、被支配者達を管理し易くする手段として客観性教育が使われている一面はないでしょうか。私達はこれまでいい成績を取ったものが高く評価される世の中で、客観的なものが正解という概念を植え付けられてきました。そして、優越意識が支配する世の中で、客観的にいい成績を取ったものが、社会的に優位な地位を得て行くという原則ができ上がりました。幼稚園に上がる前から決められた回答を多く出せるものが評価される教育が行われ、その基準で評価されるものが社会的に高い地位に登り、その上層部の人達がこのやり方を繰り返す世の中になりました。エリート教育と言っていいでしょうか。歴史的に見れば、2千年と言った長い期間に渡って高等教育が施される階層では、こうした教育が続けられて来ているように思います。

 一方で、私達ホモサピエンスに於ける発達・成長は、大家族の中でそこに居る多様な人達の真似をすることで育まれる、それを30万年やって来たんです。それが教育の基本でした。動物としての私達は、卵子が受精して以降「個体発生は系統発生を繰り返す」という発達を母体の中で進めます。単細胞生物から始まる進化の歴史を母体の中で繰り返して、人間の赤ちゃんの体まで進化したところで生まれて来ます。こうしたメモリーが受精卵のDNAの中に残っている訳です。生れ出た赤ん坊は、人間として体の動きができるように発育し、その後言語を含む感性コミュニケーションができるように成長し、その上で人間としての知的活動ができるように成長して行きます。この2千年くらいの間もエリート・知識階級以外は概ねこの発育成長の流れに則って来ていたと思うのです。それが、ある程度レベルの高い教育が一般に普及すようになった近代は、教育の均質化が図られ、低年齢の時期から知識教育が植え付けられるようになって来てしまいました。

 そして、現代はそれが更にエスカレートしていると思いますが、私達の体の中でこの知識を操る部位は大脳新皮質になります。私達の中枢神経の中心である脳は、大きく分けると爬虫類の脳と言われる古い脳である脳幹、哺乳類の脳と言われる大脳辺縁系、そして人間の脳と言われる大脳新皮質からできています。受精卵から進化の歴史をたどった後、生れ出た後の脳の発育も古い脳から順番に進んで行きます。本来教育というものは、その自然な身体的発育に即して行われるべきなのですが、現代の教育は全般的に身体的な機能を司る爬虫類の脳を健全に成長させるべき乳幼児の時期から、人間の脳である大脳新皮質への教育をしてしまっているのです。エリート教育ではこれが更に顕著になります。その結果、知的能力には優れているけれど、危険回避や感性全般を含む人間としての能力全体のバランスを崩してしまっている人が、大変増えてしまっていると思うのです。

 長くなりそうなので今回はこの辺りにして、次回は一部エリートという人達が現在の教育を自分達のために利用して来た実情や、時代転換に沿ったこれからの教育の在り方に話を繋げていきたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(29回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

9)健康(医療・薬事)のこれから(その3)

 健康(医療・薬事)の3回目になりますが、今回は「魂の健康」という視点で少し考えてみたいと思います。

 丁度厚生労働省が昨年の日本人の平均寿命を公表したところで、男性も女性も2年連続で前年を下回り、女性が87.09歳(前年は87.58歳)、男性が81.05歳(前年は81.47歳)となっており、相変わらず女性は世界第1位、男性は世界第4位の長寿国です。前年を下回ったことへの説明が「新型コロナで死亡した人が増加した影響が大きかったのではないか」となっていて、コロナ死を遥かに超える超過死亡の問題を無視しているところに、相変わらず何か真実を隠している疑いを持ってしまいます。それはそれとして日本は長寿国な訳ですが、健康寿命ということになるとどうなのでしょうか。健康寿命の定義の問題はありますが、女性は12年以上、男性で約9年、寿命と健康寿命に差があるようです。この大雑把に10年ほどの不健康に生きる期間をどう捉えればいいでしょうか。

 これまでも述べてきたように私達は、病気など健康でない状態から健康になるために医療や薬のお世話になります。そして健康になるという目的に加えて、もうひとつ長生きをするためという目的があるように思います。古くから不老長寿という言葉もありますが、歴史的にも私達は長生きを目指して来ました。これは「生きるために努力する」という生物の定義にも当てはまると言えます。今回考えてみたいのは、健康寿命と言えない状態で長生きする期間の意識の問題になります。

 私達には長生きをしたいという意識だけでなく、長生きをさせたいという意識も間違いなくあります。特に身内に対してこの意識は当り前に働きます。その結果、本人が自分の力で命を維持する力が無くなっても、各種医療技術を駆使して延命をはかることは当たり前に行われています。医療の側も法的に義務付けられている医療措置があり、これを行わずに本人の生命力だけに委ねることができないようです。家族の同意と延命、延命と救命、安楽死や尊厳死などひとつの正解はなく、様々なケースに線引きをするのも難しい世界でしょう。

 これからの時代を考えるに当たり、ここでは「魂」という視点で見てみたいと思います。本論では以前カルマ論なども持ち出しましたが、魂の生まれ変わりは当り前のことと受け止めています。臨死体験、退行性催眠、前世を記憶する子供達に関する科学的アプローチなどから死生学も進展していますので、こうしたことを否定しがちな古い物質サイエンスは早く改める必要があると思います。ここでは生まれ変わりは当り前としますが、その主体である魂とはどういうものなのかを論ずるのは難しく、一般に想像される個体人格を持った魂がそのまま生まれ変わりを繰り返すのかと言うと、そんなに単純なものでもないと思います。ただ、魂が私達の肉体の死では終わらずに、ずっと存在を続けるものだとすると(実際そうですが)、私達の肉体の死についての捉え方、肉体を延命させることへの考え方は随分変わってくると思います。肉体を持って生きることの意味、その目指すものも大きく変わるでしょう。

 肉体より遥かに長く存在するであろう魂視点に立った時、健康とは何なんでしょうか。その魂の成長を本来の存在の目的とした時、肉体の死とはどういう意味を持つのでしょうか。私の考えですが、肉体の死は魂に取ってその成長過程にあるひとつのライフイベントだと思うのです。成長へのライフイベントですから、悲しむものではなく謹んで受け入れるべき対象になるのではないでしょうか。残された身内なども悲しみに暮れるのではなく、感謝して積極的に送り出して上げる方がいいのではないでしょうか。

 このような魂視点に立った時、私達に取っての死とは、自分の力で肉体と魂を繋いで置くことができなくなった時点とするべきで、他者がこのタイミングに介入すべきではないと思います。言葉にすれば、自分の力で生きられるだけ生きて、それができなくなった時が死ぬ時だという事になります。この「自分の力」中には健康を維持する様々な活動に加えて、医療行為を受けることも含まれますが、本人の力を無視した他者による延命はすべきではないと思います。どんな生物も弱って死んでいくのは当り前です。この流れに乗らない延命は、もしかすると本人の魂を苦しめている、そんな気がして仕方ありません。寿命が延びることにいい面もあるかも知れませんが、それを目的化することは間違いではないでしょうか。一生懸命生きて、それができなくなった時に自然に死ぬ、それが健康な魂のあり方だと思います。

 さて、3回に渡って「健康(医療・薬事)のこれから」について述べてきましたが、日本ではこれからますます少子高齢化が進み、医療・医療費・医療保険などの問題が、大きくなって行くでしょう。私は自分の力で生きることを前提に、ほとんど医者にも掛からず、薬も飲まず、今のところ健康に過ごしていますが、これを皆様に強要することはできません。それでも、ほとんど自分の心身を自力でメンテナンスする努力もしないで直ぐに医者や薬のご厄介になっている方々が、その姿勢を少しでも変えてくれたら、医療の問題は大きく改善するのではないかと思います。

 次回は、ある意味本論の要とも言える「これからの教育」についてアプローチしてみたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(28回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

9)健康(医療・薬事)のこれから(その2)

 前回に続いて「健康(医療・薬事)のこれから」の2回目になりますが、今回は私達の体や心の健康について、これからの在り方を見て行きたいと思います。

 ここ100年か200年くらいの物質サイエンスの進展の中で進んだ医療や薬理の世界で正しいとされることは、その私達にできる物質サイエンスの限られた知見で検証されたものです。私達の体ひとつ取っても未知の領域の塊です。生命誕生以来38億年という長い年月を掛けて進化してきた私達の心身は、コミュニケーションの項でも述べたように、100兆匹を超える常在菌やそれを超えるだろう常在ウイルスと一体になった複合生態系です。この生態系が健常であることが、個々の人間においても健康の必要条件だと思います。

 前回薬を基本的に飲まない私が、健康に過ごしているお話をしました。健康に過ごすには免疫力が欠かせません。腸や腸内細菌が免疫に関わっていることは広く知られるようになって来ました。例えば抗生物質のような薬は腸内細菌にとっては毒と言っていいと思いますが、私達はここ100年、200年の科学研究活動で解明された狭い知見の範囲で、良い・悪いを当たり前に判断してしまっています。それを科学的な態度と称しています。医療・薬理の面で言えば、それが私達という生態系を壊してしてしまっていることが、たくさんあるのではないでしょうか。

 寄生虫を例にすれば、共生に対して寄生とは、取り付く宿主に対して不利益・害を及ぼすことです。回虫や蟯虫などの腸管寄生線虫は寄生害虫とされ、私が子供だった時代は検査をさせられ、見つかると駆除する薬を飲まされた記憶があります。もともと私達があたり前に体内に持っていた蟯虫や回虫の駆除が広域的に進むつれ、逆に増えて行った病気がアトピーや花粉症などのアレルギーや自己免疫性疾患です。そのメカニズムを研究した論文も多いですが、腸管寄生線虫の分泌物が腸内細菌の生息環境を健全にし、それが様々な免疫作用に関わっているようです。私達の生体内生態系の全様は、まだまだ未知の部分がほとんどで、そのことに私達は謙虚であるべきだと思うのです。しかし、新しい科学的知見が得られると、既存の知見による検証だけでそれを私達の身体にまで適用させてしまうことが、今の医学・薬学の世界ではあたり前に行われています。検証が既存の知識体系の中でしか行われないということは、ある意味あたり前のことなのですが、未知への謙虚さがないために、そこに固執し続けることが、今の多くの科学者達の態度のように思えてしまいます。間違いを犯した可能性に気が付いたら、直ぐに改めるべきなのに、これができない学者さんや権威ある学会が多いですね。回虫や蟯虫を例にすれば、回虫や蟯虫による私達への害はゼロではありませんが、大問題になるようなものは少ないですよね。特に蟯虫は。それなのに本来私達と共生してくれている彼らは、未だに寄生虫のレッテルを貼られ、駆除される対象になっています。ホモサピエンスとして30万年養ってきた体内生態系より、ここ100年、200年の誤った科学的知見を守るという現代の科学的態度の典型ですね。

 免疫性の疾患だけでなく、脳腸相関という言葉が示すように腸と脳の関係の研究も進んでおり、腸内細菌が脳内ホルモンの前駆体の生成に関係するなど、うつなどの疾患との関係も研究が進んでいます。体だけでなく心の健康にも腸内細菌が関係しているようです。更に腸内だけでなく子宮内フローラの研究も進んでいて、子宮内の細菌群が健常だと受精卵の胎盤への着床率が上がるということで、この点は不妊症の増加との関係が疑われます。健常な腸内フローラや子宮内フローラが形成されない人が増えることと、過剰な清潔感による除菌の習慣、特に乳幼児の時期を雑菌の少ない環境で過ごすことは、無関係ではないと思います。

 善かれと思って進めたことが、実はより多くの害を生み出してしまっている。これは健康や医療に限った話ではありませんが、健康・医療分野ではこうした問題点が目につきやすい気がします。私達の科学的活動は、ほとんど未知な世界の中で行っているという謙虚な自覚が必要です。私達の体や心の健康を、もっと広い視点から見直してみたいものです。

 健康についての話が続きますが、次回もう1回「魂の健康」という視点で考えてみたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(27回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

9)健康(医療・薬事)のこれから(その1)

 前回の「宗教のこれから」に続いて今回は「健康(医療・薬事)のこれから」について考えてみたいと思います。

 私達は生まれて来た以上頑張って生きようとするのは当然であり、少しでも長く生きようと努力するところから、経験的に掴んだノウハウを共有し、そうしたノウハウを専門とする職業も生まれて来たのだと思います。各種症状を改善するのに適した技術の蓄積が医学・医療活動になり、各種症状を改善するのに適したものを自然界から抽出するノウハウが薬学に発展して行ったのだと思います。

 医学を大別すれば西洋医学と東洋医学に分けられると思いますが、東洋医学の方は東洋に限らず伝統医療を指しているように感じます。簡単に特徴を言えば、西洋医学の方は病気を対象として、診断で患者さんの病名を特定して、その後は色々ある処方箋に従って、ふさわしい処置をして病気を治す、こんな感じでしょうか。これに対して東洋医学の方は、病人を対象にして病気の状態を総合的に捉えて、患者さんを健康な状態にする、こんなイメージでしょうか。それぞれメリット・デメリットはあると思いますが、日本では医師免許の取得が西洋医学の習得をベースにされているため、一般に病気になれば、医者に掛かり、そこで行われているのは西洋医学で、これによって病気を治す、これが医療行為と考えられていると思います。それは間違いではありませんが、西洋医学は私がこの小論で述べて来た物質サイエンスをそのパラダイムとしているために、これからの時代を考えると、それだけでは対応しきれない病がたくさん出て来てしまうように思います。既にそうなっていると言っていいでしょう。比較すれば、東洋医学、伝統医療の方にこれからの時代のパラダイムであるクォンタムサイエンスを踏まえている要素を多く感じます。西洋医学でもホリスティックな医療が唱えられ始めていますが、この点東洋医学は初めからホリスティックな捉え方をしている気がします。

 さて、日本の医療費は年間約44兆円、一人当たりでは年間35万円くらいになるようです。44兆円はアメリカについで世界第2位、このうち薬剤費が10兆円くらいでしょうか。コロナワクチンなどを加えると、実態がどう成っているのか見当がつきません。たくさん薬を服用されている方、多いですよね。病院に行くと長い間待たされて、簡単な診察を受けて、たくさん薬を処方されて終わり、なんていう経験はないでしょうか。そして、言われた通り有難がって薬を飲みませんか。医者に行かなくても、どこか具合の悪いところがあれば先ず薬、これが常識的になっていないでしょうか。

 私はほとんど医者には掛からず原則薬も服用しないので、確定申告でも医療費ゼロが通常です。2,3年に1回歯医者さんで歯石を取ってもらったり、耳鼻科で耳垢を取ってもらったりする程度でしょうか。60代後半ですが、お蔭様で健康に過ごしております。風邪を引いても薬を飲まずに治すようになったのは随分前ですが、それより前は当り前のように風邪薬を服用していました。会社員時代は風邪を引いたからと言って仕事を休むことは先ずなかったですが、薬を飲めば症状が直ぐに軽減し、治るのも早かったことを覚えています。薬を飲まずに風邪を治し始めた頃は、辛い症状が続き回復に時間が掛かったものです。しかしこれを続けていると、いつの間にかめったに風邪を引かなくなりました。簡単に言えば薬を飲まないことで自分の自然免疫力が上がったのだと思いますが、こうした点もホリスティックに考える必要性を感じます。

 過剰投薬という言葉がありますが、自分の親の経験からも「こんなに薬飲んでるの?」と感じたことがあります。同時に服用しても問題ないというガイドラインがあるにしても、薬の組み合わせの全てのケースを臨床試験していることはあり得ませんし、人の体質やライフスタイルは千差万別です。投薬は慎重であるべきなのに、医療に於いて薬が大量に投与されがちなのは、保健医療制度を用いた、医者、製薬会社、薬局の金儲け主義に加えて、薬は効くもの、薬はいいものという想い込みが私達の方にあるように思います。本当にそれでいいのでしょうか。

 医療の効果に対する臨床試験の指数に、NNTとNNHがあります。薬を例にして言えば、NNTとはnumber needed to treatで、「効果のある服用者1人を得るのに何人に服用させる必要があるか」を示した指数になります。NNTが2だと、2人にその薬を服用させると、1人に効果が現れるという意味です。数が1に近いほど多くの人に効果が期待で来るのですが、そうではない薬もたくさんあるのが実情です。にもかかわらず、私達は、薬はみんなに効くものだと思い込んで飲んでいますよね。この思い込みを変える必要があります。もうひとつのNNHとはnumber needed to harmで、「何人が服用すると1人に副作用が現れるか」を示した指数です。NNHが2なら、その薬を2人が飲んだら、その内1人には副作用が現れるということを表します。そしてこうした薬はざらにあります。多くの人は、薬は病気・症状に効くものと思って、お医者さんにお礼を言ってお金を払い、処方箋薬局でお礼を言ってお金を払って薬を受け取り、当然のこととして服用していると思いますが、効果が出ずに副作用だけもらっちゃうというケースも珍しくないのです。薬とはそういうものです。

 更に薬の効果をややこしくするものがあります。プラシーボ効果(偽薬効果)と呼ばれます。名のあるお医者さんに、「これは極最近開発されたばかりの、大変効果のある薬です。」などと言われて、実際には味付きのうどん粉を渡されて飲んだとしても、効果が現れてしまうというケースです。プラシーボ効果は結構高い確率で発生すると思うのですが、お医者さんと患者さんとの人間的関係やその時の状況など、色々なファクターが関係すると思われ、今の科学水準ではそのメカニズムは解明できないでしょう。しかし、私はこれからクォンタム領域のサイエンスが進展して行けば、こうした反応のメカニズムもだんだん明らかになって行くと思うのです。量子もつれのような現象がどのようなところに影響を及ぼしているのか徐々に解明されるにつけ、今まで分からなかったことが納得できるように成って行くと同時に、今まで問題として扱われなかったことが予想外なところに大変な害を与えていた、などということも出てくるのではないかと思います。

 以上、専門ではない人間が好き勝手に書いて来ましたので、専門家からは「勝手なことを言うな!」と叱責されるかも知れません。長くなってしまったので今回はこの辺にして、次回また「健康(医療・薬事)のこれから」を続けたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(26回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

8)宗教のこれから

 今回は「宗教のこれから」を考えたいと思います。「宗教」というと改めてその言葉の意味するところ、定義をきちんとしないと議論が嚙み合わないという経験をよくしてきました。ウィキペディアによれば「人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」となっています。一般的に「宗教」という言葉から受ける印象を、自分なりに簡単に示すと「集団組織型の信仰」になります。これに対して私は若い頃から宗教を「存在が自らの存在性を追求しながら存在して行くこと」のようにかなり広義に捉えていました。ここにいう存在とは、人間のみならず生物、非生物を問わず全ての存在になります。存在が存在しているだけで宗教でしょ!ということなんですけれども、誰もついて来てくれる人はいません。本論は先ずウィキペディアの説明のようなベースから始め、最終的には自分自身の宗教観に少し近づけて行けたらと思います。

 明治維新の廃仏毀釈、更に第2次世界大戦前の宗教団体法により国家神道の基に国民が統制されるなど、日本では長く天皇が万世一系の神に位置付けられていました。こうした日本の在り方を根絶するためにGHQがそれまでの宗教活動への規制をかなり撤廃し信教の自由が認められたことから、戦後の日本には雨後の筍のように多くの新興宗教が宗教法人の形で生まれました。その後の法改正で宗教法人化は当時ほど簡単ではなくなりましたが、宗教法人には税制の優遇措置が与えられています。宗教法人は、ビジネスに相当する事業収益以外には課税されません。広大な施設を持っていても、そこで本来の宗教活動をしているのであれば固定資産税も掛かりません。歴史的な文化遺産であれば分かりますが、怪しい新興宗教の巨大な敷地・建物が無税となると、ちょっと気色悪いですよね。

 新興宗教について、昨年の安倍総理大臣の銃撃殺害事件以降社会問題として取り上げられている旧統一教会がありますが、以前1990年代のオーム真理教の問題にしても、こうした宗教教団の組織は、巨大にして強固なヒエラルキー組織になっています。小さな宗教組織にしても、そこにはまず間違いなく教祖を頂点にしたヒエラルキー組織があります。しかしこれは新興宗教に限った話ではなく、伝統的な宗教に於いても同様です。伝統宗教の場合は、そこに多くの宗派が存在していて、教義やその解釈の違いから対立関係を生んでいる場合も珍しくありません。毎回同じ話になってしまいますが、このようなヒエラルキーや対立構造が生まれるのは、そうした組織を構成する人達が優越意識階層にいるからです。どんなに立派に見える宗教教団であっても、そこにヒエラルキー構造があって、他との対立関係などがあるならば、その頂点にいる人も含めて皆優越意識の人と言っていいです。

 こうした宗教教団の組織性と政治団体の組織性には共通項が多く感じられ、持ちつ持たれつの関係も多く見受けられます。だから宗教団体と政治団体は、組織の拡大、権力の集中、そしてお金、そうした優越目的意識から、ある程度Win-Winとなる妥協点を積み上げて行くいのでしょう。これから起こる時代の転換はこうした意識に変容を生じるもので、気づかぬうちボトムから進行して行くもののように感じています。

 ひとつの例ですが、最近スピリチュアルと呼ばれる世界に関わりを持ち始める人が増えています。その多くが女性というのが特徴ですが、主導的立場で組織化されている方々も多く見られます。そうした組織というか人の集まりの中に、宗教法人の形を作っていくところがほとんど見られません。宗教と呼んでもいい活動なのですが、株式会社組織にしていたり、一般社団法人になっていたり、個人事業の形で運営したり。メンバー制になっている組織もコミュニティという形を取っていたりします。千差万別の団体を十把一絡げにして論ずる訳にはいきませんが、大きな時代の変化の流れから見ると必然の流れのように思えます。こうしたスピリチュアルリーダーの方達から良く聞かれるのは、お金はひとつのエネルギーの現れで、循環させることが大切だというものです。前回の金融・経済のところで述べたところとかなりシンクロしています。

 スピリチュアルリーダーの皆さんは、高次元の宇宙存在からメッセージを受け取っている方が多いですね。時代を振り返ると、シャーマニズムやアニミズムの時代には、争いのない時があったと言われます。考古学的にそれを検証しているものもあります。実際そうした宗教性が残っている世界各地の先住民社会には、そうした傾向が感じられるところが多いです。これから進んで行く時代転換は星の位置関係の周期から、そうした波動環境が蘇る要素があるのでしょう。と言って当時の状況にそのまま戻る訳ではありませんから、これまでの時代の変遷を踏まえて新しい形ができてくるのだと思います。今のスピリチュアルの世界の広がり方を見ると、私達一人ひとりが皆それぞれ高次元の宇宙に繫がって行く流れが感じられます。そこから受け取るメッセージを一人ひとりが行動のベースにする中で、共通項の多い人達の間に自然に繋がり・ネットワークができている。内容により色々な人達とのネットワークが重層構造をなして行く。そんな社会構造になって行くことは組織論や政治のところでも述べました。

 宗教という視点で見れば、個人個人がそれぞれ高次の宇宙に繫がる新しいシャーマニズムと言っていいかも知れません。私達は顕在意識が発達したためにこの感覚が見えなくなってしまいましたが、これは人間以外の動植物、生き物でだけでなく全ての存在が、量子もつれのような原理で当たり前にやっていることだと思うのです。そもそも存在するということ自体が、そうした宗教性そのものだと思う次第です。全ての存在の自ら存在して行こうという姿勢が、そのまま宗教と言っていいと思うのですがいかがでしょうか。この捉え方がみんなに受け入れられれば、これから宗教団体というものは伝統宗教、新興宗教を問わず、消滅して行く流れになるでしょう。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(25回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

7)金融・経済のこれから

 前回の経済に続いて今回は、金融・経済のこれからを少し考えてみたいと思います。

 お金、資金を融通するのが金融ということになりますが、広義には株式市場なども動かすことになり、そこから更に商品やサービスのやり取りに直接関係なく、為替相場によるお金の売買、お金に準じる金融派生商品の取引なども含まれてくるかと思います。3000年くらい前に生まれたと言われる利子という考え方、300年くらい前にできたと言われる銀行預金金利、ヘッジする意味で始まった相場の先物市場、専門家ではないので正確ではありませんが、こうしたところから生まれた、商品やサービスのやり取りとは別のところでお金やそれに準じるものを売買する市場が大きくなっています。前者の経済を実態経済とするなら、後者は金融経済、資産経済などと呼ばれるようです。私はよく、実業と虚業ということばで対比したりしますが、本来私達が生活する上で必要な物やサービスのやり取りではないところで発生しているお金やそれに準じたもののやり取りの市場が、実態経済、実物市場の規模の10倍~15倍になっているのが現代の経済の実態です。極論になりますが、私達の実際の生活の上で不要なところで10倍くらいのお金が流れている訳です。

 何故そんなことになってしまっているのかですが、金融の世界に存在する、利息とか、金利と呼ばれるものから、少し考えてみたいと思います。何故金利とか利息って必要なんでしょうか。それでお金を稼ぐ商売があるからですよね。やっぱり人より儲けたい人達がこういう仕組みを作ってやっている訳です。

 お金を儲けたいという意識の過熱が、時に異常に相場を吊り上げるバブルを生んで来ました。最たるものは1920年代後半にニューヨーク株式市場で起きたバブルで、これが崩壊したことによる世界恐慌は、回復に長い時間を要しました。その過程で経済学者のシルヴィオ・ゼゲルがヨーロッパの一部の地域で行った地域通貨の実験があります。自由貨幣またはスタンプ紙幣と呼ばれる仕組みです。ゼゲルは、物品は経年すれば価値が減るのは当り前、お金も本来こうあるべきだと考えたんです。そこで考えられたスタンプ紙幣とは、発行から一定期間経過する度に裏面に切手のようなスタンプを貼らないと使えない紙幣でした。使わないで置いておくと価値が目減りするお金です。この紙幣が導入されたオーストリアやドイツの一部地域では、恐慌で疲弊した経済活動が回復する実績が上がったようです。残念ながらこの自由貨幣制度が広がる前にヨーロッパではヒトラーの台頭が始まり、この活動は消えて行ったようです。

 このゼゲルの活動を高く評価していたイギリスの経済学者ケインズは、1944年に第2次世界大戦後の世界の金融経済をどうするかを話し合ったブレトン・ウッズ会議に、新しい世界共通決済通貨「バンコール」を提案しました。バンコールは固定相場で国際間の決済に用い、貯めるということができない仕組みでした。貯めるということで発生する利益を由としなかったのだと思います。

 残念ながらブレトン・ウッズ会議では、アメリカのホワイトが提案した米ドルを金本位制にしてこれを国際基軸通貨とする案が採択され、ブレトン・ウッズ体制の名の基に国際金融経済体制が運営されて来ました。その後、ニクソン・ショックによる金本位制の撤廃、プラザ合意による変動相場制の推進、通貨価値を支えていた石油の価値の変動など、リーマンショックに代表される何回かのバブル崩壊を経て、現代はお金がネットシステムの中を流動する数字になっているように思います。何がお金の価値を担保するのか問うても、実態の良く分からない各国の信用くらいの答しか思い浮かびません。お金を売買するマネーゲームを崩壊させないための金融緩和を繰り返し、実物の生活からかけ離れたシステムの中でやり取りされるお金の数字が、実物市場の10倍から15倍になってしまっている訳です。

 

 やっぱり、経済が一方通行で成長するとか、お金は一方通行で増え続けるとか、そろそろそういう考え方を終了すべき時だと思います。実際に米ドル基軸通貨体制に変わる新しい国際通貨制度が色々検討されていると思いますが、国際デジタル通貨のようなものが、ブロックチェーンのようなシステムで繋がって国際金融経済が運用されれば、それの管理コストは掛かるにしても、広い意味で金融業というような業態が不要になって行く気がします。その通貨システムに金利を持ち込むべきではありません。やはりここでも優越意識から自立意識への変容が必要なのですが、超低金利で経済が回っている今の日本に、研究すべき何かがあると思うところです。

 さて、金融・経済の不要な部分を断捨離したら、世界経済は驚くほどシュリンクすると思うのですが、何れ避けて通れない道ではないでしょうか。そろそろ金融・経済断捨離の時ですね。そのプロセスがどんな事態を生むのかはなかなか想像できませんが、単純に考えれば失業者の山になるでしょうから、多くの人達が次の時代のライフスタイルを考えないといけないのだと思います。個人的には失業という概念も断捨離、不要になればいいと思います。

 今回はかなり歴史の説明ようになってしまいましたが、次回は別のテーマでこれからを考えたいと思います。

※『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』は、週1回くらいのペースで書き足しています。バラバラした投稿になっていますが、初めから順番に読みたい方は、note のサイトを見ていただくと、頭から読める投稿にしてあります。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(24回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

6)経済のこれから

 政治に続いて経済のこれからについて考えてみたいと思います。経済という言葉の意味するところはいくつかありますが、ひとつには物やサービスを生産してこれを分配・提供し、一方でこれを消費する活動やその流れを意味します。更にそこに発生する対価のやりとりを社会活動と捉えたものでしょうか。現代は、市場経済、資本主義経済の時代と言っていい訳ですが、その中心的経済主体である企業について、利潤を追求するのが活動の目的だと中高生の頃(50年くらい前)に習ったことを覚えています。利潤に限らずお金に換算できる色々な指標で市場競争に打ち勝つことが、企業活動になっているように思います。企業だけでなく経済については拡大志向が生まれ、多くの国家に於いても経済成長、経済発展が目標の最上位に掲げられています。GDPの伸び率などがニュースで頻繁に取り上げられることを私達は当り前に受け止めています。本論の「はじめに」で述べたSDGsの開発目標の8番目にも「経済成長も」という目標が掲げられています。私達は経済というものが成長・発展というベクトルを持つことを当然と受け入れて疑いません。

 そして個々人のベースに於いても、「お金を稼ぐ」「お金を儲ける」「財産を増やす」と言った思いやそのための行動は、抵抗なく当たり前の常識になっています。ここに優越意識特有の比べっこ意識が加わることで、他者よりも少しでもお金を儲けてやろうという思いに駆られている人が大変多いのではないでしょうか。豊かさとか幸福の条件・尺度として、どれくらいお金に換算できる財産を持っているかが問われます。歴史的に見て、かなり長い年月に渡って私達はこうした価値観を持って生きているように思います。しかしながら、時代周期のところで述べたように、今という時代は長短色々な時代の周期が重なって転換点を迎えています。長い時代周期の転換から見て、経済が一方通行で拡大して行くものという捉え方を、見直すべき時期になっていると思います。これはサステナビリティに於いて大変重要な視点です。

 SDGsの関連で言えば、7番目の「エネルギーをみんなにクリーンに」、13番目の「気候変動に具体的な対策を」があります。こうしたテーマを具体的に進めるに当たり温室効果ガス削減策として、太陽光発電の推進に助成金が付くと、それでひと儲けしようと雑多な人達が群がって来るのが実情です。サステナビリティが金儲けの対象になってしまう訳です。サステナビリティという視点で経済を膨らませる取り組みをして、環境負荷は改善されるのでしょうか。サステナビリティを問うなら、経済は成長発展させるものという私達に長く染み付いている考え方を見直す必要があります。そういう大きな時代の転換点になっていると思います。こうした視点で「脱成長」を論じ始めた学者さん達が現れ始めました。グローバル資本主義、強欲資本主義、大量消費至上主義などがもたらす地球環境破壊、格差拡大への問題提起からSDGsも生まれた訳ですが、それでも問題が解決しないと思われるところから、改めて「価値」から問い掛けている視点が多いように感じます。

 私なりに考えると、サステナビリティとは恒久的なエネルギーの循環をベースにしたものでなくてはなりません。地球環境をベースに考えれば、いつも無償で供給され続けている太陽光が基本です。これを植物などが光合成によって他の生物たちが利用可能なエネルギーの形にしてくれています。食物連鎖でエネルギーが回ります。呼吸によって排出される炭酸ガスは光合成の原料になって循環しています。太陽から供給されたエネルギーの過剰分は、地球から宇宙に放出され、別の形の循環を生んでいるはずです。余剰分の太陽光エネルギーを有効活用することはいいことだと思います。だから太陽光を発電に利用すること自体は間違いではありません。問題はお金という価値の捉え方だと思います。色々な形で行われるエネルギー循環を、私達人類がその社会活動を回す上での価値の等価交換ための便利な道具としてお金を回して行くことは、その回転を円滑にしてくれます。お金がひとつの潤滑エネルギーの役割を担っている訳です。しかし、このお金を一方通行で増やすこと、増やしたお金をどこか特定のところにたくさん貯め込むことは、サステナブルな循環からはマイナスの要素になるはずです。比べっこされるお金の量が幸福の尺度ではなく、お金はエネルギーのひとつの指標として、循環させるものだと思うのです。今の通貨体制は近々大きな変化を繰り返しながら、最終的にはエネルギー循環のための仕組みとして新しい形になって行くのだと思います。

 改めて、なぜSDGsの目標の中に経済成長が必要なのでしょうか。それが永遠に続くと思っているのでしょうか。どうしてもここに帰ってきてしまいますが、私はやはり意識階層の問題だと思うのです。人類の意識が優越意識階層にある限り根本的な問題解決はないでしょう。逆に人類の多くの意識が自立意識なれば、多くの問題は自ずと解決する方向になると思います。「価値」の話をすれば、経済は脱成長しても、文化や文明、そして私達人間の意識も当然成長すべきです。

 今回はこれくらいにして、次回もう一度経済や金融の話にするか、次のテーマに進むか、ちょっと考えてみたいと思います。

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『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』(23回目)

2.色々な分野で起こるであろう変化

5)国や政治のこれから

 政治とは?と改めて辞書を見れば(実際にはググってみれば)、「主権者が領土・人民を統治すること」となっていますが、日本では主権在民ですから、主権者は国民ということになります。実際には多くの人達の集合体である国を治めるに当たり、権力を集中させるセンターが必要になる訳ですが、主権在民の民主主義では、立法、行政、司法という三権が独立して運営される形を取るケースがほとんどだと思います。しかし、多くの構成員が優越意識階層にあるということは、上位者に権力拡大というベクトルが生まれ、三権の分立が崩れて行く傾向を持ちます。

 日本人なので、どうしても日本の政治の話になりますが、今の体制を見ていると与党政党のトップが行政府である内閣の長になり、そこに人事権を集中して三権を動かす傾向が見られます。これに加えてメディアもコントロール下に置くことで、中央集権のような体制が主権者国民の無関心をいいことに進んで来てしまっているように感じます。これが特に顕著だったのが亡くなられた安倍さんによる政権だったでしょうか。言い方と変えれば独裁政治を目指していた観が否めなません。これも大きな時代転換の流れの中で起こる揺り戻し現象のように見えるのですが、はじめの章で述べたように、安倍さんは優越意識階層の代表選手のような方でした。多くの政治家、多くの人達が同じ意識階層にある以上、仮に理想を掲げる政党が政権を取ったにしても、何れ同様の傾向を帯びてくるのが必然のように思われます。

 やはり次の時代に進むためにはみんなの意識が変わって行かないとならないと言うことです。意識変容が進み自立意識になった人では、顕在意識・潜在意識・深層意識の統合があるレベル進みます。そうすると同様に自立意識に変容した人同士の共感領域が広がり、自然な繋がり、自然な連携が生まれるようになり、ティール型のネットワークで色々なことが回るようになります。

 そして、深層領域まで意識が統合された状態になると、世界・宇宙との繋がり方に変容が起きて、個人個人のベースで高次元宇宙と同調した生き方ができるようになると思うのです。22世紀にはこうした世の中になって行くと本気で思っているのですが、こうなると人々を治めるという概念が根本的に変わってしまうと思います。はっきり言ってしまえば、政治なんて不要になるだろうということです。共感ベースのネットワークは距離に関係なく生まれる時代になりますから、それで世の中が回るとなると、今の国というような線引きも、その意味合いや機能が大きく変わってしまうでしょう。最低限の行政機能になれば、税金なんてほぼ不要、人を罰則で縛るような法律もその必要性がどんどん減って行き、軍隊など不要、警察も役割が大きく変わる、そんな世の中を夢想しています。

 図46はそんな世界を何とか表現できないかと思って書いた図ですが、思い通りに描けたものではありません。描きたかったのは自然発生の共感ネットワークで必要な人達が繋がり、物事を決める時は高次元からのメッセージも踏まえ、それで日々の営みが進んでいく世の中です。そしてその世界は、集落の中心にご神木があったと思われる縄文やレムリア、ムーと言った時代の世界から受けるイメージと色々なところがオーバーラックしているのです。

 今の日本のように多くの人達が政治に無関心なのは良くないことです。でも、いい面を取り上げればそれでも世の中がそこそこ回っているのが日本だ、と言う見方も出来ます。そこに何だか良く分からない日本人気質があって、それが更にこれからの時代にマッチして進化して行く可能性があるのではないでしょうか。国家神道、教派神道、そして神社神道とも異なる組織性を持たない神道観のようなものがまだ日本人に残っていて、自らが直接神と繋がった観、一体感を持って生きて行く、そんな感覚が芽生える人達は増えて来るように思うのです。そうすると、他人を害する悪いことが起きるケールがどんどん少なくなります。みんなの意識のステージが上がれば、これらが寝ぼけた理想主義ではなくなる、そんな風に思いたいものです。

 今回はかなり荒唐無稽な話になってしまいました。懲りずに次回は経済に起こるであろう変化について考えてみたいと思います。

※『22世紀型社会に向って -日本がそのモデルになって行く-』は、週1回くらいのペースで書き足しています。バラバラした投稿になっていますが、初めから順番に読みたい方は、note のサイトを見ていただくと、頭から読める投稿にしてあります。

https://note.com/qeharmony_627/n/n1c014e6dbe0c